第三話 音韻 〜おんいん〜

友雅はじっと水面を見つめている。
小さな魚が跳ねた後の水紋が消え、またそこに静かな世界が戻る。
さらに池の中嶋の間際にある澱みに、友雅の視線は移る。
(小さな泡にも気を取られる……。)
平常心が保てないのは、明日に控えた鬼の頭領との戦いのせいだけではない。

「神子どの……」

定まらない心の奥底にいる人の呼び名を彼は呟く。
既にお互いの気持ちは確かめてはある。
だが、戦いの終わった後、どうするか?
共にありたい、ではどうやって?
……その答えは己の裡にあるのだと、友雅は思う。
神子は待っているはずだ。
自分に問いかけてくるのを、神子ではなく、あかね、として待っている。
どうするのだ? 友雅……と彼は自分に問いただす。
幾度も幾度も己に問い、答えを出しては、それをうち消す。
迷いの取れぬままに明日を迎えることは出来ないのに……友雅は苦悩のうちに呟く。

 

「そなたらしくもない浮かぬ風情だな」
と友雅の背後で声がした。
「これは……主上」
 友雅は慌てて、その場に跪いた。近従の者に下がっているように帝は言うと、友雅の傍らで同じように水面を見つめた。
「そのようにせずともよい。二人の時は無礼講である。こちらへ近う」
 帝とは東宮の頃からの仲である。まだ幼かった東宮の守役も勤めた事のある友雅は、帝からそう許されるとゆっくりと立ち上がった。半歩下がって影を踏まぬように友雅は立つ。
「先ほど、永泉より報告が参った。それで龍神に参ろうと思うてここに来たのだ」
「は。ありがたき事にございます」
「明日、此処で全てが終わるのか……」
そう呟いた帝の言葉に、友雅は答えることができなかった。
「そなたでも……怖いか? 思えば、幼き頃よりそなたは、頼りになる近従の者の一人であったが、不安気な顔などあまり見たことはなかった」
「怖くはございません。神子どのがおります。負ける気はいたしません」
 友雅はそれだけは、はっきりと言い切った。
「そうか、では、その思い悩んだ風情は、他に何やらあるのだな。まぁよい」
 帝がやんわりとそう言うと、しばしの沈黙が辺りを支配した。ややあって、帝が呟いた。
「のう、友雅。千年の後とはどのような処であろうの? その時の流れを思えば今生の存在のなんと小さいことよ」
「ですが、神子どのによりますと、千年の後も変わらずに京は京であり続けているようです。内裏もここも……様変わりはしているようですが、紛れもなく存在すると……」
「そうか、あるのか。ならば我らがこうして生きておることも意味があるのだな」
「はい、私も長らく忘れておりました。命には輝きがあると。人はそれを紡いで生きる定めがあるのだと」
「友雅、良き物を手に入れたな。まさに時空の彼方より賜わりし宝珠だのう。ふむ……欲しい」
「は?」
「戦い終ずれば兵は兵にあらず。神子は神子ではなくなっても差し支えないのなら、我が物と致してもよかろう。大事にする」
 扇で口元を隠し、帝は軽やかに笑った。
「いかに大主の仰せでも、お恐れながら橘友雅、謹んでお断り申し上げまする」
 宝珠の意味するところが、あかねと知って友雅はついきっぱりと言い放ってしまった。
「何故そなたが断るのだ? 墓穴を掘りよったな」
「は……」
 しまったと思いながら友雅は目を伏せた。
「永泉、左大臣、藤姫からの報告に合わせて、女房たちの噂、全て付き合わせてみれば判る、やはり良い仲に……」
 帝の言葉に友雅は返答できずにいた。
「しかし、欲しいものは欲しい。どうだ、友雅、それでも私のものにしてはならぬか?」
「どうあってもなりませぬ」
 帝の目は笑っている。それが戯れ言と判っていても友雅はそう答えた。
「私に逆らうとはふとどきものよの。成敗してくれようか。ならば、友雅。我が世から逃げねば。のう?」
「大主……それは……」
 その意味するところを悟った友雅は帝を見つめた。
「ふふ……共に行くしかあるまい、そなたの背を押すことしか私にはできぬ。友雅。寂しくなるが」
「は……」
「それで良い。そなたの成敗は一日延ばしてやろう」
 友雅はただ黙って頭を垂れた。二人の会話の途切れたのをすかさず見計らって、やや離れた所にいた近従の者が、つつと忍び寄り、言った。
「大主、風が出てまいりました。玉体に障ります、お戻りくださりませ」
「うむ。そろそろ日も暮れるな。友雅、明日、祈っておるぞ」
「はい」
 友雅は再び跪き、帝の去るのを待った。その草を踏む足音が聞こえなくなるまで。やがて辺りに再び静けさが戻る。長い己の影を引きずりながら友雅も神泉苑を後にする。京の空が夕日に燃えていた。
「天よ、明日、この運命に続きがあるならば……あかねと共に……」
 友雅が夕空を見据えて呟いたその同じ刻、龍神の神子の心の中で、鈴がただ一度しゃんらと鳴った。いつもとは微かに違った音色だった。あかねの不安を、そっとうち消すようにその音は彼女の裡に静かに穏やかに拡がっていった。



                                                  第三話 完

戻る