第二話 秋想 〜しゅうし〜

 
「ここからなら……さほど……」
 大豊神社に巣くうねずみの怨霊を封印した後、一息ついて鷹通が呟いた。
「鷹通、今朝のことを考えているね?」
 友雅は彼の考えを見透かしたように言った。
「はい。やはりお気に留められていましたか、あのこと……」
 あのこと……。赤山禅院の辺りが何やら嫌な気が漂うと、陰陽寮に詰めていた泰明がポツリと漏らしたのは今朝、友雅と鷹通があかねの元に行こうとした間際であった。だが今の所問題はない……と泰明は言うだけ言って早々に立ち去ったのだった。
「まあね。泰明がまだ問題はないと言うのだから、大したことはないのだろうけれど、あそこは御所から表鬼門に当たる。確かめておいたほうがいいと思ってね」
「まだ日は高い。このまま足を延ばしてはいかがでしょうか?」
「そうだねぇ、神子どのが疲れてなければ良いのだろうけれど、怨霊を封印した後だから。鷹通、君、神子どのと先に戻ってはくれないか? 私は赤山禅院に寄ってから帰るとするよ。これは私の管轄だしね」
 そういうと友雅はあかねの方に振り返り、その手を取った。
「すまないね、神子どの。少し気になることがあるのでね。鷹通と一緒にお戻り」
「はい。でも、気になる事って……怨霊……ですか? それなら私も……」
「よくない気配があるのだけれど、はっきりしない。もし怨霊めいたことであれば、後日改めて神子どのに封印を頼むよ。とりあえずは今は真偽を確かめないとね」
 こくんと頷いたあかねの頭を軽く撫でて、友雅は微笑む。
「鷹通、頼んだよ」
「はい、どうぞお気をつけて。念の為に大内裏に戻りましたら、近衛府の方に連絡を入れておきましょう。お戻りが遅ければ誰かをすぐに差し向けましょう……」
「いやそれには無用」
「しかし」
「やぼだね……寄り道もできやしない」
 と友雅はいつもの調子で意味ありげに二人の視線を避けるように言う。
「そ、それは……」
 鷹通とあかねは揃って、眉間に皺を寄せた。
「ははは、退散、退散」
 そう言って友雅は、二人に背を向けた。卯月も末の心地よい日差しが、穢れの取り除かれた小さな神社に降り注いでいた。
 友雅は一人、馬を走らせ街道を急ぐ。白川の通をひたすら北へ。そして、夕刻間際の静けさの中、友雅は山門をくぐった。
(何か……違う……)
 と友雅は思いながら、馬を下りた。さく……と友雅は、辺り一面に敷き詰められた落ち葉を踏む。
「ああ、なんともみじの美しいことよ」
 と思わず呟いた刹那、友雅の背に言い知れぬ悪寒が走った。
「春なのに何故、こうも紅いのだ……」
 青々とした若葉ではなく、今、友雅の目の前に拡がっているのは、紅葉。
「もしや、近衛府の御方では……?」
 と友雅の背後で不安気な声がした。
「いかにも。私は近衛府少将橘友雅」
「やはりそうでしたか。いつぞやお見かけしたと思いまして」
 ここは秋、紅葉の名所でもある。参道と境内は紅葉で埋めつくされ、毎年、友雅は紅葉狩りに帝の共をしていた。そうと判るとまだ年若い僧侶は友雅に、つつと歩み寄り、些か安堵した様子で話しだした。
「今朝方からこの有様。季節を違えて葉が紅くなることはたまにありまするが、それは一枝、二枝のこと。一夜のうちにここまでとは……」
「一夜のうちに……」
「この紅葉がどの程度のものか手分けをして調べ、明日には大内裏に報告を……と思っておりました」
「して、その規模は?」
「参道、境内はこの有様ですが、比叡の方はまだ青々としておりました」
「今のところはこの禅院のみか……。鬼の仕業か……、穢れをまいたか……」
「上賀茂の祭りが穢されたと聞きます。来るべき干ばつを木は、知っているのでしょうか? それならば、と命を早めて紅うなったのか……」
「他に何か変わったことはありませんか?」
「今のところは何もございません」
「それは何より……」
 一旦、会話が途切れると、友雅は紅葉を見上げた。
(紅い……例年の秋と寸分違わぬ晩秋の此処……)
 その風情に友雅は、 いつか言おうとして飲み込んだ言葉を思い出した。

遅咲きの梅で埋め尽くされた随心院での事……。
「……ここの風情が好きなんだよ、梅が終わると石楠花。また来よう、神子どの。秋は紅葉も楽しめるのだけれど……」
 そこで友雅は言葉に詰まった。
 (……けれど、紅葉は赤山禅院がとてもいい。秋になったら神子どのを伴って訪れたい……)
 後の言葉をそっと心にしまい込むと友雅は、花をいっぱいつけた梅の枝の下に立つ愛らしい神子の姿に微笑んだ。暑い夏が来る前にこの戦いに決着がつけられるだろうことを、あかねはその時、知らなかったのかもれない。知っていて何も言わなかったのかも知れない。ただ笑っていた。その姿に、友雅の心は揺れた。
 (秋という季節を共有することは私たちにはない……のか?)
 まだそれほど、お互いの想いも積もらぬうちに、ふと横切ったこの哀しい気持ちを友雅はずっと、心の底に持ち続けていた。
 
 (ああ、そうだ。神子どのをここに連れて来よう)
 そう思ったとたん、友雅の心に仄かな暖かみが拡がった。神子を誘う理由が出来たことに、ときめいている自分を見つめて友雅は苦笑した。
 (これではまるで、総巻がとれたばかりの少年のようだねぇ)と。
 
「どうかなさいましたか? 何か楽しげになさっておいでで」
 僧侶は、先刻のきりりとした少将の顔をした友雅の表情が、俄に優しげになったのを訝しんで尋ねた。
「この紅葉があまりにも見事なので。鬼のせいだとしたら、彼らもたまには粋な計らいをしてくれるものだと。お陰で私の大切な人に見せてあげることができるのだから。ふふ……申し訳ない、不埒な事を考えてしまった」
 友雅がそう言うと僧侶は、「いいえ」と穏やかに言った。
「さて、日が暮れぬうちに戻るとしよう。明日、もう一度参ります。泰明を……陰陽府の者を伴って大事ないか確かめさせます故。今は無事でも鬼の仕業であれば地の者に怨霊が憑いているやも知れぬ。今宵はくれぐれも用心召されるよう」
「承知いたしました」
 
 赤山禅院を出た友雅は、馬の腹を軽く蹴り、手綱を引き締めた。「ひん」と一声、合図のように鳴いた後、馬は駆け出す。そして、友雅は思う。先の事は今は考えまいと。あの梅の下で、石楠花の傍らで、あるいは、桜花の舞う中で、ひとときを過ごした。明日はまた、あの木漏れ日の中で佇むあかねに逢える。偽りの秋でもかまいはしない。紅葉の力を借りて、その真白な心を朱に染めあげてしまいたい。
 初めての恋に戸惑う少年のように、逢えるだけで幸せだった心は、たちまちにうちに、今生ただひとつの恋に身を焦がすかのように、熱くなる。想いは移ろう。まだ己の心を持て余しながら友雅は風を切り、馬を夕日に向かって走らせた。

                                                  第二話 完

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