第一話 皓月〜こうげつ〜

 その辻を曲がり、細い路地に入る。大通りに続くさほど広くない路地は、真っ直ぐに伸びており、左右にどこかの屋敷の塀が続いている。いつもの夜ならば、暗すぎて通るのは躊躇われるようなその路地に、今夜は上手い具合に満月が照っている。冴え冴えとしたその月は、澄み切った美しさを通り越して、どこか冷酷さを感じさせる輝きで満たされていた。

 友雅がその路地の丁度中程まで来た時に、背後で「おん」と一声、犬が鳴いた。犬は友雅を追い越して駆けて行く。美しい月を愛でながら歩いていた友雅は、その事はさして気にも留めていなかった。ただ、自分の前にいるはずの犬の気配がフッと消えたような気がした。路地を駆け抜けて行ったにしては早すぎる……。何かしら心に掛かるものを感じつつ、友雅は先を急いだ。

 やがて、後少しで路地を抜けるという頃、屋敷の塀に使用人の出入り口らしき扉を友雅は見つけた。ほんの少し隙間が空いている。(ああ、先刻の犬は、ここへ入ったのか、どうりで見失ったはずだ)と安堵し、その扉を通りすぎる間際、何気なく友雅は後ろを振り向いた。どこかで「おん」とまた犬の声がした。そして再び、前を向いた友雅は立ち尽くす。

 「これは……?」
 確かに友雅は路地の中程を過ぎて、大通りに出ようとしていたところのはずだった。振り向いて元を見れば、まだ路地に入ったばかりに戻っている。
 「おや……酔っているのかねぇ……あれしきの酒で?」
 友雅は気を取り直してまだ歩き出す。
 「あまりいい酒ではなかったからね」
 友雅は自分に言い聞かすように呟いた。
 
 『道ならぬ恋だからこそいとおかし……そうはお思いになりませぬか、少将殿』
悠然と微笑む美しい人妻に誘われての酒宴、いつもならば夜の白々明けるまでそれなりに楽しめたものを、突然の主の帰還に、早々に退散することになったのだから。

 『今宵はご用の為、逢坂にてお泊まりのはずなのに……』と口惜しそうに女が言った。御簾の向こうでは、事情を知る女房が慌てて友雅の履き物を庭先に用意している様子が聞こえてくる。こうなってはもはや興ざめである。それでも友雅は、やっと脱ぎ捨てたばかりの小袿を女の肩に掛けてやった。顔を曇らせて詫びる女に、友雅は優しい憂いの言葉で別れを告げた。

 その言葉とは裏腹に、友雅は何かしら愉快な気持ちさえ込み上げてくるのを感じていた。実は、紅芍薬と歌われたほどに美しいその人のしなだれた姿を見ても、微塵も心はときめかなかったのだ。恋歌を贈られれば、それに応えた歌を直ぐさま返しもしたし、身を任されれば抱くこともできたが、友雅の言葉も指も、盛りを終えた花がその花弁を散らすかのように乾いていたのだった。

 
 「あの御子どのが来てから、こういうことは、どうも上手くいかないねぇ」
と苦笑しながら、友雅は屋敷の裏木戸から外に出た。そして、彼の足は、自ずと土御門殿に向かう。御子に目通りを願い出るには少し遅すぎる時刻とはわかってはいたが。
 その道すがら。近道をしようとして踏み入れた路地で…………。

 
 「おん」と犬が、みたび、啼いた。今度は友雅にもその正体がはっきりと判った。それが犬などではないものの啼き声だと。姿はまさしく取るに足りない犬であったが、月が雲間に隠れた間際に光った両眼はまさしく怨霊のそれ。友雅の手が腰元の太刀にかかる。取り憑かれた犬には可哀想だが、この場は切って捨てた方が話しが早いかも知れないと。だが、その手が柄にかかった時、友雅は己の不覚を悟った。

 女の元に行くのに太刀拵では無粋と、飾りの施した内刀拵に代えたのだ。柄巻に金糸銀糸を用い、鍔には橘の彫り、鞘には螺鈿の細工をさせたその美刀は、目の前にいる怨霊に取り憑かれたものを一刀両断にできるほどには、研ぎ澄まされてはいない。その友雅の一瞬の焦りを見切った犬は、牙を剥き、彼に飛びかかる。ひゅうと風を巻く音がして、友雅の腕に熱さを残して通り過ぎる。と共に辺りに血の匂いが立ちこめた。友雅の腕から細い線を引いて滴り落ちる血。体制を立て直し、再び犬は牙を剥きだしにする。低く前脚を屈め、友雅の息の根を止めるために、大きく飛躍しようとする、その刹那。

 「星晶針!」
 とっさに友雅は、己の霊力を解き放つ言葉を口にした。とたん指先から白銀の光が溢れ出す。環を描き、それは一旦、闇に消えたかと思うと凄まじい光を放ちつつ、ただ真っ直ぐに怨霊へと向かう。犬は小さな竜巻に呑まれたように宙に舞うと、そのまま地面に叩きつけられた。「きゃん」と鳴き声が一声。 それは先ほどのものとは違い無垢な小動物の声だった。犬は慌てふためいたように友雅の足下から逃げ出し、再び、辺りに静けさが戻った。

 「驚いたな……神子どのが一緒でないと、できないと思っていたが……」
 友雅は自分の手を見つめた。
 「既にこの身には、神子どのが宿っているのか……な」
 鎖骨に埋まった宝玉に軽く触れながら友雅は、空を見上げた。雲の合間に隠されていた月が顔を出す。先刻までの冷ややかさは薄れている。その月が、今、友雅の瞳に映っている。だが、彼は月を見ていたのではなかった。真珠色した穏やかな光の中に、ずっと昔に何処で見失ったはずの情熱を見ていたのだった。
                                                  第一話 完

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