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      午後二時五十五分。リチャードソン・ザッハトルテは、社長室へ続く廊下を歩いていた。自身の部屋は同じフロアにあるため、さほどの距離ではないのだが、今日は些かそれが長く感じる。五分前のことだった。『リチャード、三時やから休憩しに俺の部屋に来ぃへん? コーヒー淹れるわ』と、社内ホンがあったのは。いつもは呼ばれることなく、頃を見計らって勝手にお邪魔するのが常である。『俺とジュリアス様の二人きりの休憩時間を邪魔しに来た』とと罵られつつも。
      そんなチャーリーから誘ってくるには何か話たいことがあるからなのだ。そしてそれは、かなりの確率であまり良い話ではない。前回こうして誘われた時は、厄介な取引先のパーティへの代理出席の依頼だったし、その前は
      経団連のエライさんから頂戴したという妙な柄のネクタイを押しつけられたのだった。自身がデザインして作らせたのだと自慢するその人物に、チャーリーは、いけしゃあしゃあと『私の部下が気に入ってどうしても欲しいという。締めさせてみると大胆な柄なので、私よりも長身の部下によく似合い、つい仕方なく譲ってしまった』と返事を返し、ザッハトルテは『素晴らしい柄ですね』と
      社交辞令で言ってしまい、それ以来、
      経団連絡みの席では締めざるを得ない状態が続いていた。今度は何を……と、つい足取りも重くなるザッハトルテである。
 
 チャーリーの社長室につくと、既にコーヒーの良い香りが漂っていた。
 「あ、来た来た。ちょっと待ってや。すぐお前の分、淹れるから」
 とチャーリーは言い、ザッハトルテはソファに座った。ジュリアスの方もキリの良い所まで書類を書き上げたらしく、一息ついている風情だった。
      ただなんとなく無口になっているように思えるのは、この後、チャーリーが何かしら話し出す事に対して、控えめにしていようとしているように見えた。
 「はい、どーぞ。チャーリー・スペシャルブレンドぉ〜」
 差し出されたカップを受け取ると、まずその香りを愉しむ。一口、啜る。毎回、思わず「ああ……美味しい」と呟いてしまう味だった。
 「時に……なあ、リチャード」
 とチャーリーが何となく、何かありそうに声をかける。
 “やっぱりきましたか……今度は何を言い出すんですか?”と思いながら、彼は、「はい?」と答えた。
 「んーーとな。ちょーっと噂で聞いたんやけど、違ごたらゴメンやで。あのな、お前、引き抜きされそうって噂やねんけども……」
 “ああ、そのことか……案外、マトモな話でしたね……”とホッとし、口を開こうとした時、さらにチャーリーが言った。
 「いや今までもそんな噂や話はあったけど、なんか今回に限ってマジっぽいから、ホンマかな……と」
 チャーリーはチラッと上目使いでザッハトルテを見てからコーヒーを飲んだ。
 「そうですね。今回、打診があった後、すぐには断らず、先方と二度ほど会いました。時間的な事があったので、近場のカフェでね。その時、社内の誰かに見られていたのでしょう」
 別にやましいことをしているわけではないからとザッハトルテは即答した。
 「二度も会ってるということは、エエ条件なんか?」
 「条件的には大したことはないですね。今以上の年収は見込めませんし、福利厚生面では我が社に適う所はありませんし」
 「そしたら仕事の内容が魅力的なんやな……。お前の心を動かすほど……」
 チャーリーは、珍しくシュン……として俯いた。その姿に、出逢った頃のチャーリーの姿が重なって思い出される…………。
 
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