ルヴァは言われた通りに隠れようと窓の側に行った。すぐ真横の壁際にある天井まで続く書棚につい目が行ってしまう。
「あー、ダダス歴史大全が全部ありますよー。 あっ、これは、東部遺跡発掘日誌!」
ずっと昔の学者が書いた珍しい古書に、ルヴァは思わず歓喜の声を上げる。
「ち、ちょっとだけ……」
ルヴァは、書棚からそっとそれを引き抜き、窓の側にある椅子に腰掛けた。そして、カーテンの中に入り込むように身を隠すと、本のページを開いた。
一方、ベリル公は、まず執事に、ルヴァが来たことを口止めした後、フローライトを出迎えた。帰宅の挨拶をした後、フローライトは、難しい顔をして、今、見てきた事を
、父親に話し出す。
「今年は、このままで行くとそれなりの豊作が望めそうだわ。でも領地内のどこの農家も農具が壊れかけの古いものしかないの。新しい鉄製の農具は戦争の時に没収されてしまったからなの
よ。それと、一本杉の向こうの橋がほとんど崩れていたわ。ここも補修しないと馬車は通れない……。でも暗いことばかりじゃなくてよ。村で
双子が生まれたの。男の子よ、同じ顔してるの、可愛かったわ。お父様に名付けて欲しいって。……嫌だ、きつく結び過ぎたわ……、それから……」
日よけ帽子のリボンを懸命に解きながら、フローライトはいらいらした様子で、尚も、話し続けようとする。そんな姿は、前には見られなかったことだ。
「フローライト、お前は少し疲れているんじゃないかね? どうせ報告は後で文書に書き記してくれるのだから、まずは、お茶にしないか?」
「そうね……。ごめんなさい。農具の事も、橋のことも、秋までにきちんとしておかないと収穫に差し障ると思って。ふぅ……、物入りなことだと思うと、つい溜息がでるわね。だから、お父様、私、やはり秋までには結婚したいのよ……」
フローライトの眉間に、皺が寄っているのにベリル公は気づいた。彼女自身は気づいていないのだ、結婚の話を、推し進めようとする時の自分の表情を。
“だが、もう、そんな顔をしなくてもよいのだよ”
そう思うとベリル公は心底、ホッとする。
「あの男の持参金をあてにするのはやめなさい。必要なら家にある美術品や古書を売れば良い」
「そんなこと出来ないわ。どれもダダスにとっても古い貴重なものばかりよ。いずれきちん整えて資料館を建てるのがお父様の夢でしょう。それも叶うわ、この結婚で」
「私にとっては、古書や美術品や資料館よりも大切なものがあるのだよ。お前の笑顔だ。来なさい、こちらへ」
ベリル公は半ば怒鳴りつけるようにそう言うと、ルヴァの待つ広間へと歩き出した。
「ごめんなさい、お父様」
「お前の気持ちは判っている。私や、この館、領地、皆の事を思っていてくれているのは判っている。けれどもう自分を犠牲にしてまで、あの男と結婚するなどと言わないでくれ」
ベリル公はフローライトの方を振り返らず、歩きながらそう言った。
「でも本当に私はいいの。良くない噂のある人だけれど、貴族同士の結婚なんてそんなものだわ。お父様とお母様だって、一度もお逢いにならないうちにご婚約されたじゃないの。ご結婚されてから仲睦まじくなられたのでしょう?」
怒っている父の背中に言い訳するようにフローライトは言った。
「私には、結婚前から妾などいなかったし、男のくせにあれこれと衣装にうつつを抜かしてもいなかったし、派手な馬車を乗りまわしてもいなかった」
「でも……」
と言いかけたフローライトに、ベリル公は振り向き、「黙りなさい」と一喝した。
「お父様……どうなさったの? この結婚に反対のお気持ちがあることは知っていました。けれど、今日に限って、そんな風にお怒りになるなんて……」
「自分にも腹を立てているのだよ。あんな男だと判った時にすぐ話を白紙にするべきだったのだ。お前がどう言おうと。自分が情け無い。たとえ一時でも持参金に目が眩んだ自分が恥ずかしい」
ベリル公はそれだけ言うと、後は黙って歩き続け、館の一番奥にある広間の扉を開けた。
“お茶を頂くのにどうしてお父様の私室や、居間でなく、わざわざ奥の広間に行くのかしら?”
フローライトは、何かおかしい……と思いながらも黙って、ベリル公の後に続いた。フローライトは部屋に入るなり、椅子がきちんと並べられていないのに気づいた。今し方まで誰かが座っていたような形で二脚だけ、テーブルから引いてある。
「とにかく……あの男との結婚は認めぬ。早々に断りの文を使わす。お前にはもっと相応しい婿を取る」
頑として言い切った父の口調に、フローライトはどう返事をしていいか判らなくなっていた。ダダスの貴族は、戦後処理と不作のツケが回り、そのほとんどが財政に余裕がない。幾つか来ていた結婚話の中には、自領より遙かに大きな家からの話もあったが、遺跡の維持費や資料館の建設を望めるほどの者は
誰もいなかったのだ。
“ルヴァ様が亡くなった今、もう誰とも結婚なんてしたくはないのだもの。どうせするんなら本当に私はあの男でいいのよ”
何度となく言ったその言葉を、今、またここで言うと、父は怒り出すに違いない、今日のお父様は本当に何かおかしい……と思いながらフローライトは黙ったまま俯いた。
「コホン……」
とベリル公が小さく咳払いをした。そして、もう一度、今度はやや大きく「コホンッ」と。
「お水をお持ちするわ」
行こうとするフローライトを、ベリル公は制して、また咳払いをした。
「お風邪を召されたの? お父様」
「あ、いや。違う。……おい、もう良いのだよ、早く、ほら」
ベリル公は、ルヴァの潜んでいる窓際を気にしながら言った。
「一体、どうされたの? 変よ……。何が早くなの?」
フローライトは首を傾げる。だが、ルヴァが出て来る気配はない。ベリル公は、慌てて窓際に行き、カーテンの陰を確かめた。フローライトはそんな父の姿をますます不審に思い、同じように窓際の見える位置へと動いた。家のものではない見知らぬ男が倒れている……ようにフローライトには見える。
「きゃあ!」
父の後に咄嗟に隠れた彼女は、恐る恐る、もう一度、窓とカーテンの間の床に転がっている男を見た。
「あっ! ルヴァ様!」
フローライトはそう叫ぶなり、その場になへなと座り込んでしまった。
「どうしたことか……と、肝が冷えたが……どうやらただ眠っているだけのようだな。あっ、彼が手にしているのは、うちの本じゃないか。これを読んでいるうちに眠ってしまったのか……」
本を読むうちに、旅の疲れと、ベリル公に許された安堵とで気が緩んだルヴァは、一気に眠気に襲われたのだった。きちんと座っていた小さな椅子から、ほんの少しだけ体を楽にしようと思い、直接床に座り直したのだったが、座
わりこんだが最後、そのままぐっすりと眠りに入ってしま
い、ついには床に体を横たえて寝入ってしまったのであった。
「お、お父様……、これは、どういうことですか?」
フローライトは赤ん坊のように四つ這の姿勢で、ルヴァの間近まで移動して父に問うた。
「お前が視察に出た後、彼が尋ねて来たのだよ。追い返そうと思ったが、話しだけは聞いてやろうと招き入れたのだ。お前の結婚の噂を聞き、止めることはできないだろうけれど、お互いの気持ちにけじめをつけようとやって来たのだ。お前の言ってた通り……良い青年だった。私は彼がとても好きになったよ。お前が戻ってきたので驚かせてやろうとしたのだ。ここで隠れておくようにと……」
「ルヴァ様……生きてらしたのね……」
フローライトの目から涙が溢れる。ベリル公はフローライトの横に同じ様にしゃがみ込んだ。
「これでもまだあの男と結婚したいかね? ルヴァ君には、ぜひ婿として迎え入れたいと私はお願いしたのだけど、嫌だと言うなら、叩き起こして出て行って貰うが?」
「お父様、意地悪ね! でも……」
言いたい事は判っている……とばかりに、ベリル公は娘の肩を抱き寄せた。
「もう気持ち的にはすっかり話は済んでいるのだ。今は領の財政のことは考えまい。お前はただルヴァ君との事を喜べばいい。私も嬉しい」
「お父様……ありがとう」 二人は、肩を寄せ合い、本を抱え、丸くなって微かな寝息を立てているルヴァを見つめた。
「それにしても、この寝入りっぷりはどうだ? 初めての、それも貴族の館に来て。まあ、教皇様やスイズ王とさんざん寝食を共にし、しかも呼び捨てにしているのだから、それくらい何とも思わんかな。案外、この男の心臓には毛が生えているのかも知れんな、はっはっは」
「どういうことですか? 教皇様って?」
そう尋ねられてベリル公は、にやりと笑う。
「それがな、ルヴァ君が今までどうしていたか、何とも大した話でな。いやはや、大変なことになっていたのだ」
勿体ぶったそぶりをするベリル公に、フローライトは思わず詰め寄る。
「話して頂戴、ねぇ、どうなさっていたの?」
「そうか、では、私の私室へ行こう、長い話だからお茶でも飲みながらな。ルヴァ君は、もう少しここで寝かせておいてやりなさい。日差しが温かいからこのままでも大丈夫だろう。さあ」
ベリル公は立ち上がり、娘の為に手を差し出した。
「でも……」
父を見上げて、フローライトは困った顔をする。
「何だね?」
「お話はとってもとっても聞きたいのだけど、もう少し……ここにいたいの」
恥ずかしそうに目を伏せて頬を赤らめる若い娘らしい姿に、ベリル公は微笑む。と同時に、父親として一抹の寂しさも感じる。
「ふん。やれやれ、既に私よりルヴァ君かね? なんだか面白くないものだ。早まったか? 私は?」
「やっぱり意地悪なお父様」
「これくらい我慢しなさい。さあ、私はルヴァ君の夕飯と部屋の用意を執事に頼んで来るとしよう。まったく、これから何十年も、寝顔など嫌というほど見られようものを、まったく父親とは悲しい生き物だよ、やれやれ」
ベリル公は、大袈裟に嘆くふりをして、足取り軽く部屋を出て行く。
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