二人きりになった部屋で、フローライトは再び、ルヴァに視線を戻した。
その顎から首の線が、以前よりも、ずっとしっかりとして男らしくなっていることに彼女はドキリ……とする。
眠っているルヴァの手が、ふいに緩み、その腕の中から抱えていた本がコトン……とずり落ちた。フローライトは、そっとその本をルヴァの腕の中から引き抜こうとした。
「あ、どっ、泥棒ッ、ダメですっ、これは、とても貴重な……本……で……」
ルヴァは突然、目を見開き、フローライトの手から本を夢中で奪い返したあと、我に返った。
「酷いわ。それ我が家の本よ」
「あ〜、あ〜、あのですねぇ〜」
間の抜けた声を出すルヴァを、睨み付けた後、フローライトは、彼に思いっきり抱きついた。立ち上がり掛けていたルヴァは、本を落とし、フローライトの体の重みで、ドスンと尻餅をつ
いた。床に半ば転がるように二人は抱き合う。
「ルヴァ様、ルヴァ様ね?」
「はい〜」
気の利いた愛の言葉を、久しぶりに逢う想い人に告げることも出来ずに、ルヴァは、ただ、やんわりとした返事をして、腕の中にいるフローライトの柔らかな髪に触れた。
「すみません……。久しぶりにお逢いしたのに、寝ぼけるなんて……。ベリル公からお聞きしました。貴女に随分、心配をかけてしまって……。便りも一度だしたのですけれど、届かなくて……」
「父が大変なことになっていたって言ってたけれど……」
「ええ。本当に……」
ルヴァは、鉱山の仲間たちとの道中を思い出す。
「故郷を失った後、とても辛かったのですけれど、これに……随分、慰められました。貴女が側にいてくれるようで……」
ルヴァは、上着のポケットから例の衿止めのブローチを取り出す。
「持っていて下さったのね」
「これね……、ただの宝飾品じゃなかったんですよ、驚きました……」
「古ぼけたそれが?」
「日が暮れれば、判りますよ。その時、説明しましょう」
手にすると聖地が見えるのだ……と今、言っても信じては貰えないだろう……とルヴァは思い、フローライトの手を取って、自分の掌の中にあるブローチの上に重ね合わせた。つるりとした石の冷たさがフローライトに伝わる。そしてその後すぐ、その下にあるルヴァの手の温もりも……。ルヴァは指先にほんの少し力を込める。窓から差し込む午後の日差しが、フローライトの綺麗に結い上げた髪を煌めかせている。その知的そうな形の額にも、柔らかそうな頬にも、一筋の後れ毛が伝う首筋にも、口づけて逢いたかったのだと叫びたい気持ちになる。ルヴァの内に秘めた情熱的な想いに気づかず、フローライトは、ごく自然にルヴァの方に凭れた。
「うふふふふ」
小鳥のさえずりのようにフローライトは、意味もなく笑い続ける。嬉しくて、楽しくて。
ルヴァはそんな彼女の笑顔を、真横で見て、口づけをするタイミングを計っている。そして、視線が合ったその時に……。家族の挨拶のように軽く唇が触れあい、すぐに離れる。お互いの名前を囁きあったあと、ルヴァは
、座っていた体勢を、少し立て直すと、フローライトの腰に回した手はそのままで、彼女の体を自分の方にもっと引き寄せた。そして、その手が腰から下へと移動する……。
「フローライト……あの……」
ルヴァらしからぬ大胆な行動に、フローライトの心臓は今にも破裂しそうになっている。
「なぁに? ルヴァ様」
甘い声で彼女は答えて、うっとりとルヴァを見る。
「本が……。大切な本が、貴女のお尻の下に……、ほら、ここ……」
「まあっ、ルヴァ様ッ!」
「あ〜いや、す、すみません〜、でも、ご本が……。それ、ダダス大学の図書館にも無いんですよ。考古学の教授が、写本の一部をお持ちだったんですけど、禁退室で他学部の私は見せて貰えなくて」
「そんなに貴重なご本だったの? これ……」
フローライトは、少し気を悪くしながらも、自分の体の下にある本を取り出した。
「ええ、ほら、ここ、ご覧なさい。五百年ほども前のものなんですよ。原本はとっくに失われています。この写本はたぶん、筆者のお弟子さんの手によるものでしょう。昔、フング荒野一帯に、幾つもの神殿があったらしいのですよ。あの大山脈の麓あたりに遺跡がいっぱいあってですねぇ。その記録を記したものなんです。ほら、ここに、その遺跡の挿絵が……」
夢中でそのページを捲り、ルヴァは、フローライトに見せる。
“もうっ、ルヴァ様ったら”
と思いながらも、彼が開いたページを、フローライトは覗き込む。
「あら、この崩れかけた壺の絵、よく見るとなんとなくうちの領内の遺跡の土台部分に似ているわ。ここの羽根みたいな文様、見たことがあるもの」
「本当ですか? では同時代のものかも知れませんよ」
「前に調査をさせた時は、ずっと後の時代のものだって言われたわ」
「よく調べたのでしょうか? 古い遺跡の跡地に、後の時代の人が、建てたということも考えられますし。例えば、ほら、ここに記されている事例も……」
「本当だわ、もう一度、調べてみないと。そうだわ、ルヴァ様、今から行ってみましょう。ちょっと見るだけなら夕飯までには戻れるわ」
フローライトは、ドレスの裾をグイッと持ち上げて元気よく立ち上がる。
「ええ、ぜひ!」
ルヴァも、嬉しそうに返事をして立ち上がった。
「先に行って馬の用意をしています」
「あ、待って、フローライト」
ルヴァは、咄嗟に彼女の手を掴む。そして、今度はちゃんと、挨拶ではない恋人同士の熱い口づけをするために、彼女を引き寄せた。
そして、鼻先が触れあうほどの距離で……。
「ええっと……」
「ええっと?」
堪らずクスクスとフローライトが笑いだすと、ルヴァは照れくさそうに額を掻いた後、困った顔をして、やっぱり挨拶のような軽く優しい口づけをしたのだった。
めでたし、めでたし。
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