ガネットが、ベッドの上で浮遊感に身を任せていると、しばらくして寝室の扉を叩く音がした。
「は、はぁい」
 ガネットが慌てて飛び起き、扉を開くと、さっきの側仕えが立っていた。
「お休みなさっている所、申し訳ありません。使いが参りまして大聖堂へとお越しいただくようにと」
「え? 大聖堂には入れないのではなかったの?」
 誰からの、何の使いなのかと訝しげに思いながらガネットは聞き返した。
「はい、そのように伺ってはおりましたのですが……」
 側仕え自身も腑に落ちないようすだった。ともかく、ガネットは従うしかなく、彼女に言われるままに部屋を出ると、今度は、簡素な法衣を着た若い男が、ガネットを待っていた。
「大聖堂までご案内致します」
「は……はい」
“何なのよ、一体……”と思いながら、彼の後に続く。迎賓館から外に出ると屋根が付いた小道がしばらく続いている。もちろん塵一つ落ちてはいない。どこもかしこも隙なく調えられている。見上げた前方の空に、大聖堂の尖塔が見える。迎賓館は大聖堂の裏手に位置するらしい…というのが、ガネットにも判ってきた。
「聖堂の正面からは明日の式典の為、閉鎖してあります。今は、裏手から入ることになります。こちらへどうぞ」
 法衣の若者に促されて入ったそこは長い回廊で、明らかに今までいた迎賓館とは趣が違っていた。華やか色遣いはないが、重厚な木の彫り物を施した扉が幾つも並び、静けさに満ちている。窓から差し込む光も穏やかなものになるように調節されている。
 大聖堂内へ入る為に並ぶ扉のひとつを開けて「少しこちらでお待ち下さいませ、すぐに参られます」とだけ告げると若者は去っていった。
“え? 参られるって誰が?”と聞き返せなかったのは、ガネットが、聖堂の広さと豪華さ、神聖さに腰を抜かさんばかりになっていて声もでなかったからだった。それでも何とか一歩を踏み出すと、カツン……と自分の足音が響き、その場に座り込んでしまいたい気分にガネットはなった。その時、「あの……」と弱々しい声がどこから聞こえてきた。ガネットが辺りを見回すと、向こうの柱の陰にある長椅子に老夫婦が肩を寄せて、怯えた顔をして座っているの が見えた。
「あの……私らに御用というのは貴女様ですか?」
 夫婦の男の方がガネットに声を掛けてきた。ガネットは、列車の世話係の言葉を思い出した。自分以外にも、特例の招待状を受け取った老夫婦がいたと。
「違うの。私もここへ呼ばれたの。おふたりも一般の民なのに招待状を受け取ったんでしょう? 私もなのよ」
 ガネットは二人の側に急いで歩み寄った。
「そ、そうなんです。ある日、突然、招待状が。有り難いことだとお受けしたものの……」
「列車からここまでの扱いに度肝を抜かれちゃった……わよね」
 ガネットが笑いながら言うと老夫婦は、緊張が少し解けた様子になった。
「貴女はどこから来なすったんですか?」
「西の鉱山町から……」
「儂らは東の管轄地のダダス寄りにある村から。村と言っても、山の中で暮らしておりますんで何で、招待状が届いたのかもサッパリ腑に落ちませんのです」
「私だってそう。酒場女なのよ……私。教皇様が、民を大切に思われて、適当に選んだ者を招待してくださったんだと思って出掛けてきたの。だけど、私たちの受け取った招待状は特例のものだって言うし、このもてなしぶりは普通じゃないでしょう? 列車でも迎賓館で見かける客人はほとんどが貴族みたいだし。なんだか怖くなっちゃって」
 老夫婦もまったく同じように思っているらしく深く頷き合っている。
「儂らが聞いた話では、迎賓館に宿泊している者は、皆、貴族や王族、功労のあった学者や大商人だと……。儂らはまったく場違いなことで……」
 ガネットは老夫婦の隣の席に座った。三人は災難から身を守ろうとする巣穴の小動物のように身を寄せ合い、小声で今の状況について話し合った。
「今夜、大広間で晩餐会があると聞いて、さっき側仕えさんに頼んでお断りしたんですじゃ。貴族や王族と同席などして恥をかくのは判ってるし、第一、食べ方もわからんしのう 」
「私もそうするわ……小難しいマナーなんて判らないし、ドレスもこれじゃあ」
 ガネットは自分のドレスに手を置いた。教皇庁へ行くということで、一番上等で上品そうなものを選んだのだが、スイズの街中の様子や他の貴族たちのドレスを見て、いかにそれが野暮ったいものであるかを感じていたのだ。老夫婦にしてもそれは同じで、かれらにとっては一張羅のそれも、貴族の服装と比べれば、野良着も同然にしか見えない。
「ともかく式典のご招待は受けたんだもの。明日、心よりお祝いすれば無礼にはならないと思うのよ、後は帰るだけなんだし」
「そうですのぅ。なんといっても何十年にいっぺんの新教皇様のご誕生ですからのう。その場にいられるだけでも有り難い、勿体ないことですじゃ」
 三人が、ようやく自身の気持ちに折り合いをつけ、大聖堂の中をじっくりと見渡す余裕が出来た時、中央にある扉が開く音がした。ガネットたちの座っている端からは大きな柱の陰になっていて誰が入ってきたかは判らない。
「よい。下がっておれ。今、しばらく、少し話すだけのことだ」
 目下の者に、そうきっぱりと言い放つ声に、ガネットたちは身分の高い人が入ってきたのだと、失礼のないように、しっかりと頭を下げ、じっと俯いていた。カツカツと急いで こちらに来る足音が響いている。
「ラーバ、マーサ! ガネット!」
 自分たちの名を呼ばれて三人は、顔を挙げる。
「クラヴィス……あんた、クラヴィスじゃないの!」
 まずガネットが、目を剥いて驚きの声をあげた。老夫婦の方は声を出さず、ガネットの服の裾を引っ張った。
「あんた、クラヴィスの事を知っていなさるのかね?」
「知ってるも何も……って、貴方たちも? ……あ……今、ラーバって言ったわよね、じゃ、貴方たちは、クラヴィスが仕送りしてた……ご両親? 私はクラヴィスが働いてた鉱山の近くの酒場で働いてるの。クラヴィスに頼まれて、そちらに仕送り のはいった封筒を出したことがあったわ」
「仕送って貰ってたけど、私らは、クラヴィスの親じゃないんですよ」
 マーサが、どことなく申し訳なさそうに言った。
「クラヴィス、ずっと仕送りありがとうな。それが今年の春先に途絶えたから、てっきり、所帯でも持ったのかも知れないってばあさんと言ってたんだよ、何がどうなって教皇庁にお前が居るのかは知らないが、立派になって……」
 温和に涙ぐんでいる老夫婦とは違い、ガネットは、クラヴィスを睨み付けた。
「どういうことなのよ? あんた、ここで何してるの? スモーキーと行ったきり、どうなったのかと思ってたけど、法衣なんか着ちゃって……あ、判ったわ! 教皇庁で働くことが出来たのね! 学もあったし。このお二人がご両親じゃないとすると、やっぱり実は良い家の生まれだったのね。あっ、まさか、あんたがここに招待してくれたの? そんなはずないわね……新入りにそんなこと出来ないか……。親のコネかしら……うーーん、それにしても、見違えちゃったわ、こざっぱりしちゃってさ」
 知った顔のクラヴィスが現れたことと、今まで大人しくしていた反動でガネットは、酒場で、酔った客をあしらうかのように喋り出す。
「あ……相変わらず元気そうだな、ガネット。まあ、少し待ってくれ、事情を話すから」
 クラヴィスは苦笑しながら、座っているラーバとマーサの前に跪いた。
「遠路はるばる来てくれてありがとう。マーサ、足の具合はどうだ?」
 クラヴィスは、彼女の膝の辺りに手を置いた。
「仕送り、ありがとね、生活が楽になったんで、随分ましなんだよ」
「お前が修理を手伝ってくれたから家の雨漏りや隙間風も無くなったしな。儂ら元気にしとったよ。お前、鉱夫を辞めたのなら家に帰れたのかい? お家騒動は収まったのかい?」
 ラーバたちは、クラヴィスが良家の出であり、家督相続の末、嫡子たちから疎まれて命を狙われたのだと思い込んでいる。
「お家騒動?」
 ガネットは、どちらでもいいから説明して……というようにクラヴィスとラーバを交互に見た。
「ガネット。私は、ある事情で、命を狙われて崖から落とされたんだ。死にかけている所をこのラーバに助けて貰った。その上、怪我が癒えるまで匿って貰った。家には戻らないと決心し、鉱山へと流れ着いたんだ」
「やっぱり……良家の出だったのね?」
「一応は……。ガネットにも、とても世話になった。皆がいてくれたから私は生きていられた」
 大袈裟でなくクラヴィスはそう思っている。腹の底から滲み出るような自然な人情というものを、ラーバたちと出会って初めて知ったのである。
「だから……誰よりもまず、式典に招待したかったのだ」
 クラヴィスは、少し俯いてそう言った。思い切って言ったつもりのクラヴィスだったが、ガネットたちにはその真意が通じてはいないようだった。まだ三人ともクラヴィスがただ教皇庁で職を得ただけだと思っている。
「それにしたって私たちの招待状は特別のものだって聞いたわ、そんな権限が貰えるほどにあんたの実家はすごいの?」
 真顔で聞いてくるガネットに、クラヴィスは困った顔しながら立ち上がった。そして数歩、歩くと、祭壇の前に立った。神鳥の刺繍の入った天幕が張られ、深紅の壇上が作られている。明日の式典の準備はすっかり整っている。クラヴィスはそれを見上げた。
「明日、あそこに立つのは私なんだ……」
 静かにそう言って振り向いたクラヴィスの目に映ったのは、瞬きもせずに自分を見つめているガネットたちだった。双方の言葉のないままに数秒過ぎる。その時、控えめにクラヴィスの背後の扉が開かなかったら、クラヴィスは、その場をどう治めていいか判らなかったかも知れない。深々と一礼し、きびきびとした態度の壮齢の執務官が入ってくる。そして、「クラヴィス様」と言うと、ガネットたちには聞き取れないほどの小声で何かを告げた。
「もうそろそろ晩餐会が始まるそうだ。この者に大広間まで案内させよう。とりあえず楽しんで来てくれ」
 クラヴィスの言葉に、ガネットとラーバたちは顔を見合わせた。
「あ……いや、あの儂らは部屋で頂戴したいと側仕えさんに申し出たんだよ。その、あの……あんまりそういう場には慣れとらんので」
「私もそうしたいの」
 三人は揃って頷き合い、クラヴィスを見る。
「そうか……。すまない、配慮が足りなかった。ならば、私の私室へ料理を運ぶよう手配を」
 クラヴィスは、執務官にそう告げた。
「あの……このお三方の分を、クラヴィス様の私室で……、でございますか?」
 客人との食事を、広間や定められた部屋ではなく、個人の部屋で食するなど前例のないことであった。親子や兄弟の間柄でさえ滅多にはない。しかも明日、教皇になろうかという前日に、どこの誰とも判らぬ民風情と一緒に? ……執務官の口調にはそんな感情が見え隠れしている。
「そうだ。私の家族も同然の大切な客人だ。何か不都合でもあるのか?」
 クラヴィスは、執務官を睨み付け言い返した。
「承知致しました。失礼致しました」
 執務官は、それ以上は何も言わず、ラーバたちに向かって慇懃に一礼すると去って行った。
「クラヴィス……あんた……本当に、本当?」
 ガネットは、恐る恐る聞いた。クラヴィスが頷くと、ラーバとマーサは、椅子から床に座り直して、平伏した。ガネットも慌てて床に跪く。
「いっ、今まで、と、とんでもない、ご、ごっご無礼を」
「止めてくれ、何をするんだ。ガネットまで、よさないか。そんな風にしないでくれ、頼むから」
「だって……だって、まさか、そんな」
 気丈なガネットが涙ぐんでいる。
「黙っていて悪かった。さあ、ゆっくり食事をしながら話そう」
 クラヴィスは、足のよくないマーサとラーバをまず立ち上がらせると、ガネットに向かって、手を差し出した。ガネットは、自分のドレスで手を拭き直した後、クラヴィスの手 の上に、自分の手を置き立ち上がった。
「あの……でも晩餐会が始まるんでしょう? クラヴィス……クラヴィス様は、お行きにならなくていいので、いっ、いらっしゃいますか?」
 ガネットは舌を噛みそうになりながら言った。
「そんな喋り方するなら追い返すぞ。私は晩餐会には出ない。成人の儀がまだだから、公式の場に出るのは、明日の式典の後の宴からでいいんだ」
「そっか……あんたまだ十九だったんだわね……」
 いつものような口調で呟いたガネットに、クラヴィスは頷く。そして、立ち尽くしたままでいるマーサに向かって、「マーサ、おぶろうか?」と微笑みかけた。マーサは、雨が降りそうになると 、歩くのも難儀なほどに膝が痛む。何度かクラヴィスは、彼女をおぶって運んだことがある。
「仕送ってくれたお金でね、ロバを買ったんだよ。重い荷物を持って町まで行かなくて済むようになったから、前ほど痛まないんだよ、ちゃんと歩けるよ 。そんな有り難いお言葉……」
 マーサは拝むようにしてクラヴィスにそう言うと、涙をポロポロとこぼしながら俯いた。
「泣かないでくれ、マーサ」
「だってこんなことって……ねぇ、ラーバ」
「そうとも。儂らずっといいことなんか無かった。息子を亡くして以来、村に住む金も無くて、山小屋暮らし。山菜と木こりで食いぶちだけをやっと稼いでひっそりと暮らしてたんだ、こんな……こんな……儂らみたいな者の近くに……教皇様が……」
「いいのよ、ラーバたちは、クラヴィスの命の恩人なんだもの。私なんか何もしてないわ、客からお金をちょっとでも吐き出させようとしている酒場女よ。寝場所を貸すだけなのに、 クラヴィスから、しこたまお金を払わせてたわ。なんてことを……」
 ラーバとマーサ、ガネットの三人は、互いに寄り添うように固まって立ったまま動こうとしない。
「三人ともいい加減にしないか。一緒に行こう」
「いいえ、私らは自分の部屋で頂戴しますよ」
「一緒にだなんて、そんな勿体ないことはできんよ」
「そうよ、罰が当たるわ」
「何で私と一緒に食事すると罰が当たるのだ?」
「だって、あんた、教皇様じゃないの」
「まだ教皇になってない」
「同じことじゃないのよ。“教皇様がお飲みになった水を、有り難いからと言って愚者が飲むと声を無くす”って言うじゃない」
「馬鹿な迷信だ。私に口移しで水を飲ませてくれたこともあっただろう!」
「あれは、真夏に、あんたが、喉を掻きむしって、酷く魘されてたからよ! 起こしたって起きなかったからよ。それに、私があんたに飲ませたんであって、あんたが私にくれたんじゃないもの」
 ガネットとクラヴィスのやり取りに、マーサが「おや、まあ」と小さく言って恥ずかしげに目を伏せた。
「ち、違うのよ、違うの。そんな仲じゃないのよ、私、酒場女だけど、クラヴィスとは何もなかったのよ!」
 ガネットは、慌てて否定する。
「そこら辺りも食事しながら説明すればよかろう。聖堂で余り騒ぎ立てると、それこそ天罰が下るぞ」
 クラヴィスは、神鳥の彫られた天井を指さす。ガネットが、口元を抑えて黙り込んだので、クラヴィスは、ガネットの背中を扉へ向かってさらに押した。そしてラーバとマーサを後から抱えるようにして前へと促す。
「さあ、飯だ。 教皇庁の飯は、とてつもなく美味しいのだぞ。早くしないと冷めてしまう」
 クラヴィスは、わざと砕けた口調でそう言った。
 

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