こうして穏やかに数日が過ぎた。教師はクラヴィスの真面目さ、覚えの早さを褒め、側仕えたちは、その素直さを褒めた。誰もが「あのような生まれにも拘わらず、さすが教皇様のお血筋だ」と
言った。
利発とは言え、まだ十一歳になったばかりのセレスタイトは、何か釈然としないままにその言葉に頷くのだった。
ある日、クラヴィスの衣装の仮縫いが行われた。セレスタイトはそれが終わるのを横で待っていた。様々な布を広げたその中にクラヴィスはずっと立たされている。その回りを生地屋、仕立て屋、側仕えが取り囲んでいる。
「お襟元はきつうございませんか?」
「はい」
「お色はどちらがお好きでしょう? こちらの方が品格があるように思いますが、これでよろしいでしょうか?」
「はい」
「お疲れになりましたか?」
「いいえ」
クラヴィスと側仕えたちのやり取りを、本を読みながらぼんやりと聞いていたセレスタイトは、クラヴィスが「はい」と「いいえ」しか、言ってないことに気づいた。
“今日だけのことじゃない……。クラヴィスは、ほとんどずっとそうだった。問いかければ答えるけれど、自分からは何も言わない……。クラヴィスと呼べば、はいと答えるけれど、私は一度もクラヴィスから呼ばれたことはない……声をあげて笑うどころか、大きな声で何かを言ったことすらない……”
セレスタイトはその事実に愕然とする。生まれついての気質が、大人しくて素直だからではなく、母親との別れが、クラヴィスにそうさせているに違いない、クラヴィスは心の病気なのだと、彼はそう考えた。退廃的……という言葉をセレスタイトはまだ知らないが、クラヴィスの心の中が、寂しく曇っているのだと見抜いた彼は、“なんとかしなくちゃ。クラヴィスがあまりにも可愛そうだ……。それに、家族なんだもの、もっと私にもうち解けて欲しいもの……”と思うのだった。
仮縫いの済んだ後、セレスタイトは、クラヴィスを戸外に連れ出すことにした。今までも中庭や旧聖堂のある裏庭あたりで遊ぶことはあったが、今日は、クラヴィスの手をひっぱって、「こっちこっち」と言いながら、どんどん教皇庁内の敷地の奥へと歩き続ける。
「この向こうも教皇庁内なんだよ」
自分の背丈ほどの塀の前でセレスタイトは、悪戯っぽく笑ってそう言った。塀の上に手を置き、ぐいっと体を持ち上げた彼は身軽にその上に座った。そして「おいで」とクラヴィスに手を差し伸べた。クラヴィスはその手に縋りながら、なんとか塀をよじ登った。
「わあ……」
目の前に広がる景色に小さな声が上がる。
「ここは私たちが毎日、食している麦や果物や野菜なんかを作ってる畑なんだよ。ほら、あっちに花畑もある」
威厳のある建物の中よりは、この自然に近い風景の方がクラヴィスにとっては心地よいのではないか……と思ったセレスタイトの読みは当たったようだった。畑側に降りた彼らは、畑の作物の様子を見ながらしばらく歩き続けた。戻ろうかと言いかけたセレスタイトの目に、少し先の、背の高い雑草の生い茂るまだ手付かずの敷地が映った。かくれんぼならば、見つけたら自分から大きな声をあげなくてはならないだろう……と思いついたのだった。
「クラヴィス、かくれんぼをしよう。私が隠れるから見つけるんだよ!」
セレスタイトは、繋いでいたクラヴィスの手を放し、その雑草の中へと走っていった。頃合いの所でセレスタイトは、しゃがみ込んだ。クラヴィスがセレスタイトを探し
ながら、草を分けて歩くガサガサと言う音が途切れると、さやさやと風が雑草を渡っていく音だけがしている。
「どこ……?」
クラヴィスの弱々しい声が聞こえ、また辺りを歩き回っている音がしている。セレスタイトは、じっと座ったまま声を殺している。
「どこー?」
さきほどよりは少しは大きい声になっている。
“もっと大きな声で呼んでみろ、クラヴィス”
と、セレスタイトは心の中で応援する。だが、クラヴィスの声はそれ以降、聞こえず、草を分ける音もだんだんと遠ざかっていく。やがて……。
「どこーー? セレスタイトにぃちゃぁぁぁぁん!」
と大声がした。セレスタイトは、はじけるように立ち上がり、その声の方向に向かって掛けだした。(猛ダッシュ!)
「ここだよ、ここにいるよーー」と叫びながら。
今にも泣きそうになりながら立ち尽くしているクラヴィスを見つけたセレスタイトは、「初めての場所なのに、ごめんね」と何度も謝った。口をへの字にしたまま黙り込んでしまったクラヴィスと違い、セレスタイトの
方は溢れんばかりの笑顔である。
“セレスタイト兄ちゃん……” そう呼ばれたことが彼にとっては、とてつもなく嬉しかったのだ。しかも、兄上でもお兄様でもなく、兄ちゃんと呼ばれたことが、あまりにも斬新で新鮮だった。
“セレスタイト兄ちゃん、セレスタイト兄ちゃん、セレスタイト兄ちゃん……にぃちゃん……”
セレスタイトの心の中で、何度もクラヴィスの声が回り続ける。
「クラヴィス、もう一度言って」
「え?」
「さっき呼んでくれただろう? あんな風に」
「セレスタイト……兄ちゃん?」
じぃぃぃ〜んとしながら、頷く兄セレスタイト。
「これからもそう呼んでくれるかい?」
コクンと頷いた弟の頭を、いつまでもナデナデするセレスタイトであった。
■NEXT■
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