が、その幸せは長くは続かなかった。
三日後の雨の日、仕方なく二人は、室内で五元盤をして遊んでいた。クラヴィスはやっと駒の動かし方を覚えたばかり。後一手で、セレスタイトは自分が勝つと判っているのだが、今ここで完膚無きまでに勝ってしまうと可愛そうだという気持ちと、勝負は勝負、手加減などしない方がクラヴィスの為……という気持ちの狭間に立たされていた。じっと盤を見て考え込んだセレスタイトに、クラヴィスは
、つい無邪気に「次は、
お兄ちゃんの番だよ」と言ってしまったのだった。
彼らの背後で、お茶の用意をしていた側仕えたちの空気が一瞬にして冷えたのが、セレスタイトにも判った。年かさの側仕えが、すかさず二人に歩み寄る。
「クラヴィス様、そのようにセレスタイト様をお呼びになってはいけません。お兄ちゃんではなく、兄上と」
笑顔(目は笑っていない)で彼女はそう言った。クラヴィスは悲しそうな目をして俯いた。
「お兄ちゃん……などという言い方は、下々の者の使う言葉です」
「シ……モジモ?」
クラヴィスは、きょとんとしている。
「その言い方の方が良くない。父上は、王族、民の区別はあっても、心がけとして、
この地に住まう者は皆、平等であるべきなのだ……と仰っている。そのような人を見下げたような言い方こそ間違っている」
セレスタイトは、負けじと反論した。
「ご立派であらせられます、セレスタイト様。これは私めが悪ぅございました。ですが、お兄ちゃんと兄上では、どちらが丁寧で良いお言葉でしょう? 兄上でございましょう? 教皇庁の者は、民たちの正しい見本とならねばなりません」
いくら利発とはいえセレスタイトは十一歳、そう言われると論駁できず、「では、二人で遊ぶときだけ」と言うのが精一杯だった。
「いけません。この時だけ……と思っても、立ち振る舞いやお言葉使いなどというものは、何かの時につい出てしまうものです。お小さいうちにきちんとしたことを身に付けるのは
、クラヴィス様の為でもあるのですよ、わかって頂けましたか?」
理屈ではその通りだと思うセレスタイトだが、子ども心がそれを拒否する。素直には返事が出来ず、口を噤んだまま、クラヴィスの手を引き、その部屋から出て行ってしまった。
(しかも、ちょっとだけ扉を蹴ってみた)
「セ、セレスタイト様?!」
今までなかった彼の態度に、側仕えたちは慌てふためき、このことは、即刻、セレスタイトとクラヴィスの執事や教育係につたえられ、たちまちのうちに、教皇一家に仕える者たち
全員の、知るところとなってしまったのである。
セレスタイトは、クラヴィスを連れて、夕餉までは出ないと宣言して自室に、引き籠もった。バタン!
「んまああっ、セレスタイト様が、あのように扉を乱暴にお閉めになって! どうしましょう! 皇妃様にお伝えしなくてはっ」
あたふたと乳母が走っていく音に、セレスタイトはますます不機嫌になる。 「ごめんなさい、お兄ち……兄上」
クラヴィスは何が何かわけが判らなくなっていたが、どうやら自分が、お兄ちゃんと言ったのが原因だということだけは気づいている。
「クラヴィスは悪くないんだよ」
「でも……あの僕、ここでの言い方が良く判らない……すごく間違ってるらしい……この間も、スープがもっと欲しくて、おかわりと言ったら叱られたし……」
クラヴィスはしょんぼりと俯いている。その時のことはセレスタイトも同席していて知っている。
『クラヴィス様、おかわりと言って器を差し出してはいけません。控えの者に、もう少し頂けますか? と言ってお申し付け下さい』
そう窘められたのだった。
「お腹が空いたから早くご飯にして欲しくてそう言った時も叱られた……」
公務のある教皇や皇妃、上級の学習を受けているセレスタイトとは別に、クラヴィスだけが一人で昼食をとることもある。
「そんなことがあったの? クラヴィスはまだ小さいのに、空腹を我慢させるなんて酷いじゃないか! これは、イジメだっ」
セレスタイトは怒り出す。
「違うの……やっぱり言い方が悪かったの……」
「何と言ったんだい?」
「腹減った……って。でも、空腹を……覚え……ましたので、早めに昼食に……して頂けますか? と言わないとダメなんだって。どうして? おかわりも、腹減った、も短くて言いやすいけど、……そんなのは長くてなかなか覚えられない」
セレスタイトは困った顔をしている。可愛そうに……と思う反面、『腹減った』は、ちょっと、どうかと……思う。
セレスタイトは、ハッとしてクラヴィスを見つめた。クラヴィスが無口で大人しいのは、実母との別れや、性格によるものだけが原因ではなくて、もしや、言葉使いが、ヘイヤにいた頃とあまりにも違うので、話せなくなってしまっているのではないか……と。
「……クラヴィス、例えば……、書写で何回もやり直しを命じられた時、いつも“はい、わかりました”としか言わないけど、本当はどう言いたいの?」
「でも……」
「大丈夫。叱ったり、告げ口したりはしないよ、本当はどう思ってるか知りたいだけなんだ」
「……またかよ、やってらんねぇよ……」
「じゃあ、衣装合わせでずっと立ちっぱなしにさせられてる時は?」
「……早く、終わんねぇかなあ……たりぃ〜よ」
「うう……。じゃあ、さっきのこと、側仕えが、教育係たちに告げ口して回ったことはなんて思った?」
「ちくしょう、チクリやがって……」
愛らしい小さな口から発せられる言葉に、セレスタイトは天を仰いだ。
「やっぱり……とてもいけないんだ……僕」
「ち、ちょっとだけ……。最後のはだいぶ良くないと思うけど……」
「なんて言ったらいいの?」
「う〜ん……。告げ口するなんて酷いじゃないか……かな?」
「チクリ……が告げ口ってことなんだね……じゃ、ちくしょう、は?」
「そ……それは」
セレスタイトの辞書には、その言葉に置き換えられるものがない。
「ち、ちくしょう……は、ちくしょうとしか言えないのだけれど、それは、悪い言葉なんだよ……」
「やっぱり、僕……悪いんだ……。側仕えが噂してたよ、僕……生まれがよくないんだって……よくわからないけど」
クラヴィスの目がうるうるしている。セレスタイトは、胸がきゅぅぅぅんと苦しくなる。
「そっ、そんなことない! クラヴィスは、父上の子どもで、私の弟だよ。言葉使いなんてすぐに覚えるから。もし誰か、クラヴィスの生まれがどうとか言う者がいたら……お兄ちゃんに……チ、チクるんだ、シ、シメてやるから!」
この時、セレスタイトは言い慣れぬ言葉使いに必死で、背後の扉が開いたのに気づいていなかった。皇妃が銀のトレイに薔薇模様の茶器を載せて唖然として立ち尽くしている。
『あらあら、そんなに騒ぎだてるものではありませんよ。幼い子どもたちのことですから、一時のことでしょう。おおめに見てあげましょう。ここは、わたくしが、セレスタイトのお部屋まで、お茶を持参いたしましょう』 と、今し方、乳母を窘めたのは……間違だったの……?! と皇妃の心の中に一陣の風が吹く。ひゅるる〜。
後日、【クラヴィス様お言葉使い再教育問題、及び、セレスタイト様反抗期突入の傾向と対策委員会】が
作られ、前にも増して、二人への監視と指導は強化されてしまったのだった。
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