教皇庁のあるスイズから見れば東南部に位置するヘイヤ国は、まだまだ粗野な所……というイメージがある。漁業の盛んな海沿いの最南部はそれなりに大きな町が幾つもあるのだが、北部はその地理も険しくあまり発展していない地域であった。特に大陸横断列車沿いは、荒野が延々と続くのみである。そんな中に荷運び人や鉱山からの流れ者のための宿や酒場を有した治安の良くない幾つかの町がある。クラヴィスが生まれ育ったのもそんな町のひとつだった。
表向きは、ヘイヤ国のある貴族の姫との間に生まれた子ども……と言うことになっているクラヴィスだが、実は、酒場経営者の妹であり、その店の踊り子だった女と教皇との間に生まれた子だった。
教皇庁の中でも、一般の執務とは無関係の、教皇一家の世話をする皇邸で働く者たちは、なんとなくその事を知っていた。
教皇と皇妃の長子であり、もうすぐ十一歳になるセレスタイトは、明朗快活、文武両道、そして、もちろん美形と非の打ち所がない。側仕えたちは、完璧な皇子様であるセレスタイトに傾倒しており、これからやって来るというそのヘイヤ生まれの平民の血筋の子どもに対して、既にどことなしか冷たい雰囲気が流れていたのであった。
普通ならばここで、突如やって来る、父が余所で生ませた、しかも身分の低い女の子どもに対して、距離を置いたり、虐めたり……ということがあっても不思議ではないのだが、セレスタイトの場合は、キッパリと違っていた。
同じ父の子どもなのに、貧しい所で生まれ育ち、実母と引き離されやってくる弟と比べ、自分はなんと恵まれた時を過ごしてきたのだろう……と良心の呵責さえ覚えたのだった。かくなる上は、これまでの
クラヴィスの不運不幸を取り戻すべく、また、生まれ育ちをどうこう言う口さがない者たちから弟を、身を挺して守らねば……(握り拳)という兄としての責務に燃えるのだった。
ヘイヤからやって来た弟……クラヴィスは、酒場女の子どもだから、乱暴な野生児ではないかという大方の予想を裏切り、おっとりとした大人しい子どもだった。ツヤツヤとした黒髪も、穏やかな眼差しの少し紫かがった黒い瞳も愛らしく、まだ五歳なのに、自分を弁えているかのように
、控えめに俯く様は、あれこれとよくない噂をしていた側仕えたちの心さえもゲットした。
翌日からクラヴィスは、セレスタイトとともに教育係が付き添い、勉強することになったのだが、やっと簡単な絵本が読め、幾つかの単語が書ける程度だった彼は、セレスタイトと教師から、やや離れた所に座らされて、単調な書写をずっとさせられていた。
「書けました……」
と時折、クラヴィスは、セレスタイトの前に座っている教師の元へ書き取りをしたノートを見せにやって来る。
「だいぶ上達されました。ですが、この、『きょうこうちょう』の綴りが少しあやふやですよ。これは特に大事なお言葉ですからね、もう、百回」
教師はにっこりと微笑み情け容赦なく言った。
「はい…わかりました…」
とぼとぼと自分の席へと戻っていくクラヴィスの姿は、セレスタイトから見ても、いじらしいものだった。
「では、今日はこれくらいに致しましょう。……おやおや、弟君はお疲れあそばしたようですね」
教師は、小声でそう言い、人差し指を唇に押し当てた後、セレスタイトの背後のクラヴィスをソッと指差した。
書写に疲れたクラヴィスが机に伏して眠っていたのである。教師が退室した後、セレスタイトはそっとクラヴィスの側まで近寄った。ページいっばいに『きょうこうちょう』と書いてある。
「この綴りは覚えたみたいだね」
セレスタイトは微笑むと、何気なしに前のページを何枚か捲ってみた。『せいち』と何回も綴られたその欄外の余白に何か名前のような単語が幾つか書いてある。『ヘイヤ』という地名以外は、どれもセレスタイトの知らない名前だった。実母や、向こうでの友だちの名前かも知れない……。そして、少し離れた空白に『せれすていと』と書かれてあるのを見つけた。自主的に自分の名前を書いてくれた小さな弟が、可愛くてたまらないセレスタイトは、クスッと笑って、その上に『せれすたいと』と小さく書き入れたのだった。
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