第二章 再 会

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 大海のただ中にある帆船は、最後の力を振り絞るようにして大海原を進んでいた。いや、進んでいるというより、漂っていると言ったほうが正しい。 
 その船首に、ジュリアスは独り立ち、悲しみに堪えてい る。一昨日、第一騎士団の若者が一人、還らぬ者となったのだった。
 魔の海と恐れられた海域に突入したのは、十日ほど前のことだった。最初は、天候も良く波も穏やかな様子だったが、三日目の昼過ぎ、突如として強い横風に煽られた。甲板にいた船乗りが、あっという間に海に投げ出されたのが最初の犠牲だった。なんとか体勢を立て直したものの、その後も船は、複雑な海流 と風に翻弄され、西への舵の定まらぬままに、降り出した雨とさらなる強風に、何度も転覆しそうになりながら、辛うじて、まさに嵐のような数日を乗り越えたのだった。その間に、また海に投げ出されたり、折れた支柱の下敷きとなって、三人の水夫を失っていた。第一騎士団の中にも大きな怪我をした者が何人かいた。帆を下ろす時に大きく船が揺れ、胸を強く打ち付けた者が、 昨日、息を引き取ったのだった。身近な仲間の死、特に第一騎士団員として、寝食を共にしていた者たちの悲しみは大きい。その弔いの済んだ後は、いつものように持ち場についた騎士団員だが、当然の事ながら表情は硬い。オスカーやオリヴィエ、古参のラオがなんとか気持ちを盛り上げようと励ましの言葉だけは発するのだが、当の本人たちも疲れ切ってしまっていて笑顔が出ない。前向きな気質の者が多い第一騎士団の者でさえこうである。港で雇い入れた水夫や航海士たちの荒みようはもっと酷かった。水夫たちは、些細な発言がきっかけとなって小競り合いを続けているという。
“なんとかせねば……”と思うジュリアス自身、もう幾日もほとんど眠れぬ日々が続いている。
 数日が過ぎ、嘘のように天候も波も穏やかになり、魔の海を越えたのだと安堵したのも束の間、航海士長が、悲痛な顔をしてジュリアスの元にやって来た。
「……しかし、魔の海の先は未知です。海流も海底の地形も何一つ判っていません。その上、船は少しづつ、西ではなく南へと流されています。先の嵐で支柱も折れ、帆は裂けました。風に抗うほどの帆は貼れません。風向きが変わらないと……もう、どうしようも ありません」と。
 嵐によって備蓄していた米や粉類の一部に被害で出て、その他の食料もかなり残り少なくなっている……その事は、別の担当者から聞かされており、騎士団の者たちが、魚や海鳥の捕獲に懸命になってはいたが、乗組員全員の口に糊するほどの量にはならない。
「ジュリアス様」
 ジュリアスは、ふいに背後から声を掛けられ、振り向くとそこにヤンが立っていた。いつも笑顔で溌剌としている彼も、仲間を失った悲しみから抜け出せないでいる様子だった。
「食事の用意ができています」
 食事といっても、スープと干し肉が一切れ程度の物だ。
「いや、私はいい。空いていないのでな。病人を優先してやってくれ」
「いけません」
 ヤンは彼らしくない低い声で呟くように言う。その顔には悲壮感さえ漂っている。ジュリアスにはヤンの気持ちが判っている。行き先の判らぬこの旅路のよすがとなっているのは、ジュリアス自身なのである。そのジュリアスが、倒れるようなことがあれば……と。
「そうだな……すまなかった。戴くとしよう」
 ジュリアスがそう言うと、ヤンは少しだけ嬉しそうに頷いた。そして、「俺、今は非番ですから、ここで風向きが変わらないか見張ってます!」と、精一杯の明るい声を出して言った。
 頼む……、という意味を込めて、ヤンの肩を軽く叩いた後、ジュリアスは船室へと戻った。部屋の片隅で何人かの者たちが、破れた帆布の補修をしていた。その中にオリヴィエの姿が見える。固い布を縫う手仕事の為に、その指先を何度か突いたらしく血が滲んでいる。それでもオリヴィエは 、何も言わず懸命に作業を続けている。 インディラの港を出たばかりの頃は、オリヴィエやオスカー、ジュリアスといった高位の者には、一切の手を患わせぬようにしようとしていた騎士団や水夫たちだが、そんなことを言ってはいられない現状である。オリヴィエは、細やかな手作業に、オスカーは力仕事に従事していたし、ジュリアス自身も、航海士長の指示の元に細々とした雑務をこなしていた。
 ジュリアスはその場をそっと離れ、第一騎士団の者たちの部屋に向かった。仲間の弔いの後、他の怪我人や病人たちの具合が一層悪くなっている、せめて何か言葉をかけよう……と思ったのだった。船底にある部屋に続く階段を降りた所で、オスカーの声が聞こえた。半開きになっている扉から様子を伺うと、彼は、寝込んでいる怪我人たちと何か話し合っていた。
「オスカー様、ただ寝ているだけしかできない私たちよりも、他の者に回してやって下さい」
 肩から腕にかけて包帯をした男が、食べ物が入った皿を、オスカーに返そうとしている。
「そうです。育ち盛りの若い連中や、ジュリアス様たちに」
「俺はもう……だめかもしれないから」
 一番重傷の者がそう言うと、オスカーは、その者の視線に合わせて、座り込んだ。
「馬鹿な事を言うな! 皆、少しの間、養生すれば治る怪我だ。俺はもっと酷い怪我だったんだぞ、それでも生きてるだろう?」
 ホゥヤンで館の焼き討ちにあったオスカーが、幾日も意識を失うほどの傷を負ったことをその場の誰もが思い出す。
「これ以上、誰ひとり死ぬことは許さん。第一騎士団の者なら生き抜け!」
 オスカーの気迫のこもった言葉に、怪我人たちは、力なさげではあるが黙って頷いた。ジュリアスはそのまま引き返し、厨房へと向かう。部屋の真中に置かれた大きなテーブルの端にラオがいる。 ラオはジュリアスの姿を見ると、「用意できていますぞー」と声をかけた。ジュリアスは、彼の隣に腰掛け、回りに誰もいないことを幸いに「ラオ、水夫の中に戻るべきだという声が上がっていると聞くが本当か?」と話しかけた。
「聞いております。戻るにはもう一度、魔の海を越えねばならんことは承知の上で、それでも尚、食料のある今なら、そのほうがまだましだと、言うております」
「ラオもそう思うか?」
「いいえ、せっかく越えたものを、どうして後戻りできましょう。それにこの船の傷みでは、再度あの嵐のような中を越えられるかどうか。 水夫たちは、騎士団の者たちの覇気のない様子を敏感に感じ取って弱腰になっているだけです。最初から、魔の海を越え西へ向かうことには、
予測できない危険が伴うと承知の上で 、それでも雇ってくれと申し出た猛者たちですからな 」
「現在地からでは、北西へと進路を取らねばならぬのに、船は少しづづ南へと流されている……」
「そうらしいですな。だが、もしや、南の方角にも島や大陸があるやも知れんでのう。儂は、悪いことは考えぬ脳天気な性質ですのじゃ。だからこそ、ここまで長生き出来ました 。それに何時、風向きが変わるかも知れんし 」
 ラオは明るくそう言ったが、ジュリアスの表情は硬い。
「……ふうむ。干し肉一枚とて、チビリチビリと時間をかけて食えば、腹がふくれますぞ、ジュリアス様、さあ、お食べなされ」
 ラオは、ジュリアスの為に鍋からスープを注ぎ、割り当てられた干し肉を一枚、皿に置いた。そして、ジュリアスの顔を覗き込むようにして、微笑んだ。
 まだ幼い頃、ラオに剣の稽古を付けて貰っている時のことをジュリアスは、ふと思い出す。上手くいかず項垂れていると、ラオは決まって、自分の背丈に合わせてしゃがみ込み、無理矢理に視線を合わせた後、「落ち込みなさるな、ジュリアス様」と言って、微笑みかけるのだ。
「オリヴィエ様は、一口大に砕いて、一つづつ飴のようにずっと舐めて食べておられますぞ。それを一欠片、オスカー殿に横取りされたと喧嘩じゃ。まったくお二人とも 王子とは思えんことですわい」
 ラオは、自分の分の干し肉を、細く裂きながら戯けた風に言った。
「彼らなりに場を明るくしようとしているのだな……」
 しんみりと言ったジュリアスに、ラオが首を振る。
「いや、あれは案外、本気でしたぞ。そんな清い思惑などありはせん。あのお二人ときたら、城にいた頃から、菓子だの肉だのを大きい小さいと喧嘩じゃったからのう。あっはっは 。うかうかしているとジュリアス様の分まで取られますぞ、ほらほら、早う、食べなされよ」
 ラオが豪快に笑うと、些かなりともジュリアスに食欲が出てくる。
“風向きは変わる、大陸はきっとある……。そうだ、ずっと昔、大山脈の向こうから声を聞いたのだ、越えて来い、とあの者は言ったのだから……”
 あれは決して幻聴などてはないのだと、ジュリアスは、心の中でそう自分に言い聞かせるのだった。
 

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