第二章 再 会

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 風に抗うように舵輪を握っていた航海士が、小さく「あっ」と叫んだ。
「どうした?」
 彼の背後にいたジュリアスが顔を挙げたのと、操舵室の扉が勢いよく開いたのと同時だった。
「ジュリアス様っ、風が止まりました!」
 甲板から全速力で駆けてきたヤンは、そう言うだけ言うと、肩を上下させはあはあと息を継いだ。
「ええ、今、何かスッと舵が軽くなったんです。気のせいかと思ったのですが」
 航海士もそう言いながら、舵輪を止めた。
「甲板に出てみよう」
 ジュリアスは、航海士長とヤンを伴い、甲板へと出た。オスカーやオリヴィエが船首で空を見上げている。穏やかに暮れ始めた空に拡がる雲は、さほど流れておらず、波の揺れも少ない。
「ジュリアス、風が止まったようだよ」
 ジュリアスが甲板に出て来たのを見たオリヴィエは手を振った。
「風が止まった……凪ですよね?」
 ヤンが心配そうに航海士長を見る。
「ええ。しばらくこのままでしょうが、夜になるとまた風が吹くでしょう」
「風が変わるか?」
「未知の海ですし……判りません。でも、凪の後は風が逆転することも多いですから」
「ジュリアス様、俺は水夫たちにこの事を告げて来ます。風が変わると聞けば連中も気合いを入れるでしょうから」
 ここ数日、仲間の死と食料の割り当てが減って一触即発になっている水夫たちが暴れ出すのを、オスカーが、辛うじて押し止めている。
「ワタシは、破れた帆の補修を急がせてくる」
 オリヴィエは、薄汚れた髪を、束ね直しながらそう言うと、オスカーと共に再び船底へと向かった。
 やがて完全に夜の帳が降り、ほとんどの者が眠りにつく頃になっても、風は止まったままだった。揺れの少ない夜は、ぎしぎしと船板の軋む音もせず、眠りが深くなるのだが、誰もが風の吹く方向が気になって、なかなか寝付けない。
 ジュリアスとオリヴィエ、そしてオスカーは一つの室を、三つ寝台を並べて使っている。部屋の中央にあるジュリアスの寝台を挟むようにして、窓寄りにオリヴィエ、扉側にオスカーの寝台が並べられている。
「気になって眠れない?」
 オリヴィエは、隣に寝ているジュリアスの方に寝返りを打ち小声で尋ねた。
「ああ。祈るような気持ち……とはこの事だ。もし北からの風が吹き、また南へと押し流されるようなら、帰りたいと水夫たちは暴れ出すであろうな……」
 ジュリアスらしからぬ沈んだ声である。
「いいえ、ジュリアス様」
 オスカーもジュリアスの方に寝返りを打った。
「なんだ、オスカーも眠ってなかった?」
 それならば遠慮することはないとばかりに小声をやめてオリヴィエが言った。
「眠れるもんか」
 オスカーはそう言うと半身を起こした。
「ジュリアス様、水夫たちにも判っているんです。食料も残り少ない。船の傷みも激しい。もうこのままでは戻れはしないと、判ってます。ただ連中は、騎士団の者たちみたいに、黙って耐えることが苦手なだけです。わあわあと叫んで発散しないとやってけない質なんですよ。何だかんだ言っても、ジュリアス様のお側に仕えていることを誇りに思っていますから」
「ありがとう、オスカー。気持ちを切り替えてしっかりと眠ることにしよう」
 低い声だが、ほっとしたような穏やかなその言い方が、オスカーの胸にぐっとくる。このままでは湿っぽい雰囲気になってしまう事を察知したオリヴィエが、「さあ、寝ようよ。風が変わったら忙しくなるからね。破れた帆の修理は、まだどっさりあるんだもの〜」と、わざと情け無い声を出して、その場を切り抜ける。再び静かになった部屋で、瞳を閉じた彼らは、ようやく眠りへと落ちていった……。
 それからしばらくして、廊下側に寝ていたオスカーは、戸外の足音に反応し目を覚ました。ジュリアスとオリヴィエからは微かな寝息がしている。隣室の第一騎士団の誰かが、用足しにでも行ったのだろう……と思いながら、再び眠ろうとしたものの、風の様子が気になったオスカーは、少し外に出てみることにした。甲板に上がると、やはり風はまだないようで、生暖かい空気が漂っている感じがしている。がっかりしたオスカーが部屋に戻ろうとすると、船首の方で人影が動いた。目を凝らすとそれは、ヤンだった。
「おい、ヤン」
 ふいに声をかけられて驚いて振り向いたヤンだが、それがオスカーと知って、いつもの笑顔を返す。星明かりの中でその表情が見える位置にまで来たオスカーは、「眠れないのか?」と尋ねた。
「ええ。俺、風を読むの得意だから、何か感じないかな……と思ったんですけど……」
 オスカーは、ヤンが狩りの時など的確に風の方向を読んでいた事を思い出す。
「でも、山とか木とかそういうものがないから、ここではあんまり判らないです。風に乗って届く花や動物の匂いもしない。ここでは、潮の匂いしか……」
 少し俯いてヤンは頭を掻く。
 オスカーの心の中に、クゥヤンの草原が思い浮かぶ。今頃の季節なら青々とした草原のそこかしこに可憐な野の花が咲き乱れ、鳥がさえずる。そんな中、追い風を受けて馬を走らせる時の爽快さ……。
「西にだって草原はありますよね」
 オスカーが心に描いていたものと同じような風景をヤンも想っていたのか、彼はそう言った。
「ああ、あるとも」
「もし人が住んでいるなら馬もいるでしょうね。どんな馬だろうなあ」
「きっと良い馬さ」
 二人の心の中には、それぞれに思う駿馬が描き出される。オスカーは、黒く艶やかに光る毛並みの馬を思う。何処までも何処までも駆けて行ける強い足の馬だ。
“ジュリアス様やオリヴィエ様みたいな黄金の毛並みを持つ馬だっているかも知れないなあ”とヤンは思う。柔らかな日差しのような毛色の美しい馬の群れを想像し、ヤンは思わず顔をほころばせる。二人はそうしてしばらくの間、甲板に立っていた。
「夜明けまではまだ時間がある。もう一眠りしておこう」
 オスカーは、船室に戻ろうとヤンを促した。
「はい」
 ヤンは素直にオスカーの後に続く。船室へと続く階段を下りかけた時、ヤンはふと後を振り向いた。目を閉じて五感を澄ませる。“気のせいか……な”と思い直した時、彼の頬を穏やかに流れていくものがあった。
「オスカー様、風が……」
 ヤンはすぐに甲板に引き返す。オスカーも後に続く。風……と呼ぶには余りにも緩やかな空気の流れを二人は感じる。
「どっちからだ、どっちから吹いてるんだ?」
 オスカーは夜空を見上げる。ヤンは自分たちが進むべき北に向かって、両手を空いっぱいに拡げて立つ。
「南からだ……オスカー様、南風です」
 静かにそっとヤンが言う。声をあげるとせっかく吹き始めた風がどこかに消えてしまうような気がするのだ。
「本当か?」
 オスカーには風の吹いてくる方向がまだ判らない。ヤンと同じように立つことで、それを感じようとする。
「あ……ああ……」
 少しづつ風は、はっきりとそれと判るほどに流れ出した。二人は顔を見合わせると、お互いの拳をガッチリと合わせて笑った。今度は何に憚ることなく。
 

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