二日後、スイズ王城に行かせていたジェイド公の文官が、報告を持って戻ってきた。まだ若いその文官は、何の疑問も持たず、スイズ王城から知り得た情報を、文書にしてジェイド公に手渡した。
先の暴動に荷担していた指導者の名が、今後の国政を担う者として連ねてある中に、かって自分の武官だった、クラヴィス暗殺計画をもっともよく知るジンカイトの名を、ジェイド公は見つけ愕然とした。
「あやつめ……行方が判らぬと思っていたら、南部平民代表として暫定政府入りとは……」
苦々しく舌打ちをしたその直後、ジェイド公はもう一人、気になる名を見つけた。
「この教皇庁管轄地の鉱山の総監督になるという男は……?」
ジェイド公の呟きのような声に、若い文官は、「他家の文官たちから聞いた話では、教皇様からのご推薦もあり、リュミエール王の信任が厚い人物と聞きました。
チラリと見かけました。鉱夫だと聞きましたがそんな風には見えませんでした」と言った。
「では、どんな風に見えたのだ? その者の年は? 風貌は?」
ジェイド公のこだわりに、若い文官は些か驚きつつも、見たまま感じたままを述べた。
「年は、三十代後半から四十ほどでしょうか? 体格も良く、顔付きも精悍です。私はたまたま近くにいて、その者が、王宮内の元文官殿と交わしている会話を聞いたのですが、言葉使いも
、農夫や鉱夫のそれではなく、きっちりとした訛りのない敬語を使っておりました。他の者たちの人望も厚いようです」
「スモーキー……。スモーキー・クリソプレイズ……、クリソプレイズ……」
ジェイド公の低いくぐもった声の呟きに、文官は微かに首を掲げる。
「スモーキーとは、おかしな名前でございますが、鉱夫たちは、きちんとした名を使わず、愛称や、体の特徴や、出身地などを元にして呼び合うことも多いと聞きました」
「スモーキーは、確かに愛称だろう。しかし、この家名は……」
ジェイド公は、瞳を閉じた。
「クリソプレイズ村の出身者でしょうか? それならば、ジェイド公領の出身でもありますから、近いうちにこちらにご挨拶に来るよう申しておきましょう」
「いや……かまわぬ。もし我が領の出であるなら、申しつけねば来ぬような無礼者には逢う気はせぬ。もう、よい。ご苦労であった。下がれ」
ジェイド公は、文官を追い払うと、深く椅子に座り直し、手元の報告書を見つめた。遠い記憶が蘇ってくる……。
皇妃になる妹の衣装を作らせるために集めた貴族の婦人の中で、群を抜いて美しい女がいた。新しく配下に置いた隣のクリソプレイズ領の奥方……最初はもちろんただそれだけの間柄だった。
領地を召し上げられた領主がその後、卑屈になり
、領地内の執務を放棄してしまうという話は珍しいことではなかった。しかも、酒浸りになっている噂を耳にした時、もっともそのような輩を嫌うジェイド公は、
そんな夫を持った彼女に同情し、そこから関係が徐々に深まって行った。針仕事が達者で、美しく慎ましやか……貴族の奥方としては申し分のない女だった。クリソプレイズ公の死後、
二人の関係は一気に進み、喪が明け、時期が来れば、寵妃として迎え入てもよい……と思ってはいたのだった。
“何と言っても教皇様の元へ嫁ぐ妹がいるのだ。私自身も身綺麗であらねばならぬことは判るだろう? 羨望が嫉妬へと変わり、どんな小さな落ち度からでも、婚約破棄に持ち込ませようと画策している者もいるのだ。事実、私がお前を欲っさんがために、クリソプレイズ公に毒でも盛ったのではないかという噂さえある
という。ともかくも、お前を我が寵妃とするには
、もうしばらく時が必要なのだ”
“どのくらいですの?”
“少なくとも妹が長子を身籠もるまでは……”
“そんな! いつになるかも判らない授かりものですのよ! 男子が産まれる保証もなく、もしも、ということもありますわ”
“よくも縁起でもないことを! 悪いようにはせぬからおとなしく待っておれと言っただけのことに! 婚礼の衣装が出来上っているのなら、沙汰あるまでしばらく顔を見せるな
!”
平手打ちを食らわすと、泣きながら彼女は下がっていった。運の悪い事にその姿を他の奥方に見られ、噂に尾ひれがついた。
女同士の噂話など取るに足りぬと取り合わなかったことで、彼女は、ジェイド公から見捨てられたのだと思い悩み、半ば発作的に、見張り塔から身を投げてしまったのだった。それを聞いた
ジェイド公は、驚きもし、憐れみもしたが、直ぐさま、それは怒りへと変わった。彼女が身を投げた日は、前もって婚礼道具一式を教皇庁に運び込む為の吉日であったのだ。
偶然か故意にか、婚礼の荷を積んだ馬車が通り過ぎるほんの数分前に彼女は、身を投げた。先行していた衛兵が慌てて、馬車を止めたが、縁起を担いで後戻りも出来ず、道の清めが済むまで、その場にて馬車は何時間も待機させられ、教皇庁へ馬車が着いた時は深夜になってしまっていたのだ。
数日後、憎しみの籠もった目をして、遺体を引き取りたいとやってきた彼女の息子に弔いの言葉などかけてやる義理はないと思っていた。弱さ故に酒に溺れて病死した父親や、愚行故に丁寧に弔う事さえも出来ぬ死に方をした母親の事が、まるでお前のせいだろうと言わんばかりの目をしている。そして、こともあろうに、私に刃を向けた……。
「ジンカイトだけではなく……、あのクリソプレイズの息子までもが……今になって……」
呟きと当時に、ジェイドは、手の中の報告書を握りしめた。
“二人とも、確実に葬っておくべき者だったのだ……。祝い事の直前だからと鉱山送りにしただけで済ませてやったあの若造が……。そして、ジンカイトだ……。焼け跡から遺体が確認できなかったが、私の前から
永遠に姿を消したのなら
、それでいいと思っていたのが甘かった……”
ジェイド公は、報告書を壁に向かって投げつけた。
“教皇は、新たに民の代表となった者たちと共にスイズの国政に参加せよ……と仰せだ。かくなる上は……と覚悟を決めたが、ヤツらと一緒だとは……”
新教皇にクラヴィスがなり、自分の孫のような年のリュミエールがスイズ王となる。その国政を支えるのが農夫や鉱夫の長……政権が根底から覆されて、古い時代が一掃されようとしている……そこに自分の居場所は……? どうすれば良いのか、ジェイド公は、指を組み、思案し続ける。繰り返す模索の中で見つかる答えは、ひとつの所に辿り着く。セレスタイトが聖地人となって戻らぬ今、クラヴィスが教皇となるしかないのなら、やはり自分はスイズの国政を第一線で担う者となるしか名誉ある道は残されていない。となれば……。
“ジンカイトとクリソプレイズ……この二人をどうにかして失脚させねば、私の地位など確立できまい。だが……上手く失脚させられたとしても、ただでそのまま済むような連中ではない。殺さねば……殺さねば……ならん”
ジェイドは、立ち上がると唸るような溜息を付き、窓辺へ向かった。開いた窓の外に、夏の青空が広がっている。自分のどす黒い腹の内とは相反する、清々しさで。
いっそ表舞台から引退してしまえば……、とジェイド公はふと思う。
自分の子は、男子がいなかった為、婿を取ったが、三年前に男児の孫には恵まれている。孫が成長するまで、婿を後見人とし、ジェイド家の跡を継がせ、自分は余生を狩りや釣りをしてのんびりと過ごすのも悪くはないだろう……と彼は、それまでになかった選択肢に心を開きかける。そうすれば、これ以上、罪を重ねることもないのだ、と。青空がそのまま続いていれば、ジェイドは諦めの溜息の後、その道を進んだかも知れない。ふと、もう一度見上げた空の片隅に灰色の雲が立ち込め、地響きのような音が空から響いて来るのが聞こえた。その季節によくある通り雷雨が近づいている証拠に、ジェイド公は、「ふ……」と自嘲したような笑いを漏らした。
“先代の死後、その手腕によって、自領を富ませて広げ大貴族になり、妹を教皇様に嫁がせた。貴族としてはこれ以上はないほどの所まで上り詰めたが、その上を望んだとたん、これか……”
込み上げる悔しさにジェイドは窓枠をグッと掴んだ。確かに強引なやり方によって築いた地位ではあるにせよ、暴政故に民によって捌かれたスイズ王ほどではない。
むしろ領地内では崇められてさえいる。ただのスイズ貴族として生まれた故に、それ以上の高望みは出来ぬというのなら、卑しい身分の子でありながら教皇という地位に着こうとしているクラヴィスはどうなのだ? とジェイドは思う。少なくとも自身の努力や才覚
という点に於いては
、自分は誰にも劣るとは思えなかった。
ジェイド公の思考は、堂々巡りを繰り返し、正しい答えを掻き消すように、空からも澄んだ青さが失せていく。と、同じくしてジェイド公の顔から一切の表情が消えた。彼は、静かに机の前につくと、教皇当てに文を書いた。深い反省の意を表した後、今後はスイズの国政に命ある限り尽くすと。締めの挨拶文の途中、一息ついてペンを置き、立ち上がった彼は、扉の所まで歩き、振り返り、書きかけたままの文書の置いてある机を見て満足気に笑った。部屋を出たジェイド公は、そのまま館を出ようした。側仕えが、「お出掛けですか? 一雨きそうでございますが?」と尋ねる。
「教皇様にお出しする文の内容を思案中でな。少し歩いて考えを纏めようと思う。館の回りを一回りするだけだから、雨が来たら、どこかで雨宿りでもしていよう。通り雨だ、すぐに行き過ぎる。小一時間ほどの事だ。戻ったらすぐに飲めるよう茶の用意をしておいてくれ」
ジェイド公は、笑顔でそう言って、館の庭へと出た。日差しは完全に陰り出している。庭を抜け、館を取り囲むように作らせてある道の端にある例の見張り塔へと着く頃には、ポツポツと大きな雨粒が落ちてきていた。日干し煉瓦を積み上げた見張り塔は、老築化が激しく建て替える計画が進んでいる。その最上階へジェイド公が上がった時には、落雷と共に強い雨が振ってきた所だった。塔の上は、彼の胸の辺りまで壁がぐるりと続いている。ジェイド公は雨に濡れながら、一番脆そうになっている塀の部分を、足で蹴りつけた。二、三度の行為で、その部分の煉瓦が崩れ出した。さらに強く体当たりをすると今度は大きく危険な程にそこが崩れた。
「うむ、ほど良い。この位で充分だろう」
そう呟くと彼は、その崩れた隙間からそっと下を眺めた。下は固い石畳である。この高さならば落ちれば間違いなく命はないだろう。次の瞬間、空が強く光り、
天が割れたかと思うほど雷が強く鳴った。誰もが思わず身を竦めるほどの音だった。だが、既にその時、ジェイド公には、その音は耳に届いていなかった。
彼に躊躇いはなく、強い意志の元、ごく自然に歩き出すようにそこから一歩を踏み出した。何もない空中へと……。
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