第七章 光の道、遙かなる処

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「クラヴィス……」
 幼いクラヴィスの姿を思い出すと同時に、教皇は溜息をついた。と同時に扉がそっと開かれた。
「父上、お目覚めでしたか?」
 セレスタイトだった。
「少し前に伺ったのですが、うとうとしていらっしゃるようだったので、引き返したのですよ。管轄地へ送る書類を頂きに参ったのですが……」
「すまない。二度足を取らせて」
 教皇は、サインを書き終えてあった書類を、セレスタイトに手渡して言った。
「お疲れになっているのではありませんか? 椅子などではなく、少し横になられては?」
「いやいや、私の仕事のほとんどをお前が代行してくれているのだからな。お前の方こそ、顔色が良くないぞ。申し訳ないな、私のせいで」
「何を仰るのです。私なら大丈夫ですよ」
 セレスタイトは、笑ってそう答えたが、先ほどから感じる胃のあたりの灼熱感がそろそろ辛くはあった。空腹を覚える頃になると、焼け付くように胃が熱くなり、しばらくするとキリキリと痛み出すのだった。
 教皇はそう答えたセレスタイトの頬に出来る影が気に掛かっていた。よく知らない者は、精悍になられたと、鋭さが増した顔つきを褒める。教皇は、彼が慢性的な胃痛に悩まされているのは既に承知しており、最近は、あまり食事も量がとれていないらしいと聞き、 彼の面立ちの変化は、体重の減少によるものではないのかと危惧する。  
 やはり今日こそ、“あの話”を切りださなくては、と教皇は思うのだった。
「セレスタイト、もういいだろう」
 教皇は、静かにそう言った。
「何がでしょう?」
 書類に目を通していたセレスタイトが、小首を傾げて言った。
「クラヴィスの事だ。この秋が来れば四年だ……。あれは帰って来ない。恐らくは自分の意志で戻って来ないのだろう。ジェイド公が、手を尽くして探してくれても見つからない。記憶を喪失していたとしても、身に付けているものから判ってもよさそうなものだ。クラヴィスの持っていた鞄や服には名前が印してあったはずだし、紋章の入った指輪もしていたはずだ。クラヴィスは、きっとお前に教皇になって欲しいと思っているのだよ」
「…………」
 セレスタイトは、何も言わなかった。
「実は、私は、もう見えないのだよ……聖地が」
 自嘲しながら教皇は静かにそう告げた。
「え……?」
「私の中には、聖地よりの力はもうないのだ。クラヴィスの元に全部、移ってしまったよ。本当ならば、もうとっくに教皇を退いている」
「父上……」
 セレスタイトは、何とも言えない表情をして父親を見た。
「お前が、教皇になりなさい」
 その言葉をついに教皇は言った。ここ数日、ずっと考えていたことだった。
「そんなこと出来ません。何の力もないのに。民や聖地を欺くことになってしまいます」
「力を持っている者が教皇になれと、聖地から申し渡された訳ではない。少なくとも、そんな文献は残っていない。ただ、今までそうしてきただけだ。事情を知れば、聖地も許して下さる。……聖地が我々の心のお側にあるものならば、きっと」
「ですが!」
「もうずいぶん探したではないか。でも見つからなかった。東の辺境一帯の農家や商家にそれらしい人物を雇い入れた形跡はないという。お前には伏せておいたが、念のため酒場の二階にまで探させてみたのだぞ……」
 教皇は瞳を閉じ、そう呟いた。
「酒場の二階ですって!」
 その意味するところが判ったセレスタイトは思わず叫んだ。そして、真っ直ぐで艶やかな黒い髪とほっそりとした色白のクラヴィスの容姿を思うと、ありえないことではないと、身震いした。彼の中では、クラヴィスは、まだ十五歳の物静かで頼りなさげな少年のままなのである。
「鉱山はどうですか? 十五ならば鉱山でも働けます。クラヴィスに力仕事が出来るとは思えませんが、下働きなら。ジェイド伯父上はお調べ下さったのでしょうか?」
 セレスタイトの言葉に教皇は首を振った。
「罪人以外の鉱夫については、その数さえ流動的で把握できていない。名も偽名や愛称で通す者の方が多いと言う。クラヴィスがいたとしても、本名を使ってはいないだろうし、たとえクラヴィスと名乗っていても、それはヘイヤあたりではごく平凡なありふりた名前だからな……。クラヴィスに戻ってきて欲しいと思うのなら、もうそろそろ決着をつけなければならないだろう」
「決着……」
「どんな生き方をしているにせよ、あれが、面白おかしく日々を過ごしているとは思えない。聖地よりの力の総てを引き継いだのなら尚更、あれには定期的に辛い夜がやって来ているはずだ。それは、独りで乗り越えなければならぬものだが、目覚めた時に側に、自分を思ってくれる親しい者たちや、民の平和な日々の営みが感じられてこそ救われるものだ。誰からの労いの言葉もなく、温かい眼差しもない……そんな所に身を置いているのなら……。楽にしてやりたい……せめて私が側にいて……」
 その“辛い夜”が、どれ程のものであるのか判らぬことがもどかしいセレスタイトだったが、今はそれ以上に父の苦悩に満ちた表情に心が痛む。
「それに、ダダスとスイズの戦いは、ますます激化している。両国に再三にわたり、文を送ったが、効果は見られない。ルダは巻き添えになり国土は荒れるばかり。スイズのリュミエール王子は未だ行方不明のまま……。痛ましいことだ……。この和平の乱れを何とかすることこそが、教皇庁の努めだと思うが、それもままならない」
 枢機官の中にらは、ジェイド公のようにスイズ国の有力者を含め、スイズ、ダダス、双方の出身者が含まれている。各国の国政には関与せずの中立的な立場をとり続けなければ、教皇庁の在り方自体にも影響を及ぼす。そのことは、教皇という地位にありながら、人間関係に悩む父を見て、セレスタイトはよく知っていた。
「私が在位して三十年ほど……。多少の入れ替えはあったが、各枢機官との付き合いもそれほどになる。不正のなきようにと努めてきたが、枢機官と下役人たちの間には、癒着も生まれ、しがらみが外せない……。時代が、新教皇を求めているのだよ。お前が在位すれば、枢機官も一旦、一掃され新規に枢機官を選出できる。それに新教皇の誕生は滅多にない祝い事 。スイズもダダスも休戦せざるを得ない。それを足がかりに、停戦に持ち込めるように、若いお前の力ならば出来るかもしれない」
 セレスタイトは深く頷いた。確かに新教皇の誕生には、どこの国でも盛大な祭りが行われる。大陸全土にくまなく通達が回り、それはクラヴィスの耳にも届くだろう。
「家を離れている者は、家路に付き、家族と共に祝い、聖地に祈りを捧げよ……、通達にそういう一文を載せよう。クラヴィスには私たちの真意が判るはず」
「判りました……。秋の豊穣祭の頃、即位式を行いましょう……けれど、誰が教皇になるかは、ぎりぎりまで言明しないで頂きたい。私はやはりクラヴィスが教皇になるべきだと思いますから。 この頭上に冠を載せる間際までクラヴィスを待っていたい」
 セレスタイトは、きっぱりとそう言った。
「判った。即位式の事は、内々に準備だけは推し進めよう。民への通達は夏の終わりにすればいい。もう少ししたら、とりあえずは、スイズとダダスに非公式ながらも、即位の件を伝え、停戦に入るようにと匂わせておこう」
「はい」
 セレスタイトは、重く沈んだ表情を残したまま頷いた。
「新教皇の法衣を作るのに時間が掛かるな。私の時は半年もかかったのだぞ。明日にでも、側仕えに採寸させておきなさい」
 教皇は、わざと明るい声でそう言った。
「少し丈を長めに作らせておきます……」 
 セレスタイトは、そう言って小さく笑った。クラヴィスが着ることになるのを期待して……と彼は言わなかったが、教皇には、それがすぐに判り、セレスタイトの心を思い、胸が詰まる思いだった。そして、どういう形にせよ、もう、こういう思いとは無縁の所で、二人の息子が、仲良く時を紡いで行ってくれたならば……と願うのだった。
「クラヴィスは今、何処で、この沈む陽を見ているんでしょうね」
 セレスタイトが、窓の外を見てポツリと言った。だが、その夕陽をクラヴィスは見ていなかった。暗く古い坑道の中で、光を求めて必死で歩いている所だった。
 クラヴィスも教皇たちも、遠く離れた所にあっても、お互いの事を心に描きながら、ようやく前へ進もうとしている最中であった。
 

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