教皇庁大聖堂の尖塔に夕陽が当たり煌めいている。今日もまた澄んだ美しい音で、鐘が家路につく時刻を告げる。重厚な机の前で、教皇もまた一日の職務を終わろうとしていた。
手元にある書類は、スイズとダダスからの戦いの報告書であった。双方ともに自国の正当性を訴え、遠回しな言い方ではあるが、停戦のつもりがまったくないことが記されている。この瞬間にも、彼の地では、何人もの兵士が、巻き添えになった民が、命を落としている……。教皇はしばしの間、聖地へと祈りを捧げた。そうすることしか出来ない自分の無力を誰にともなく詫びながら。
しばらく瞳を閉じていると、疲れた彼を、睡魔が襲ってきた。深く椅子に座り直して、今度は祈るためではなく、しばらくの間休息を取るために、瞳を閉じた教皇は、浅い眠りの中で、夢を見始めた。いや、夢というよりは、彼の記憶の引き出しの奥にあるひとつの大切な想い出を、取り出して見ているような……。
もう二十年以上も前の事……。ヘイヤ国に遊説に行った返り、悪天候から大陸横断列車の到着が大幅に遅れ、付近の小さな町に、彼はお忍びで滞在することになった。ヘイヤは、教皇庁のあるスイズより南部に位置し、文化の面では随分と立ち後れた国であった。まだまだ粗野な所という印象と、旅人の風情をしていることが、彼の気持ちをかつてないほどに開放的にしていた。とある酒場で、漆黒の髪を持つ美しい女性に心を奪われ、気に入れば誰とでも親しくなる気ままな踊り子だと聞き、
思い切って声を掛けたのだった。だが話してみると、彼女は、そんな奔放で美しいだけの酒場女ではなく、快活で利発な人だった。打てば響くように、はきはきと答えが返ってくる。時には冗談を交え、彼をからかうように。そんな風に女性と話したことはなかった教皇は、ただ彼女と屈託なく会話することを楽しんだ。他の男たちと違い、自分の手にさえ触れようとせず、微笑みを浮かべて、あれこれと話しをするだけの不思議な旅人に、彼女も惹かれていった。そして数日が過ぎて、遅れていた列車が到着し、明日には発つというその夜、教皇は宿屋を、彼女は酒場を抜けだし、町外れの広い野原に出掛けた。最後の夜、満天の星空の下、箍が外れたように二人は愛し合ったのだった。
奇跡のような時だった……と教皇はその時の事を、今、また改めて夢の中で想う。
兄弟の無かった分、仕方なしに聖地よりの力が自分に賜っただけと思い、前教皇よりは無力である事と自覚していた彼は、それならば他のどの教皇よりも、正しくあろうと思ってきたことだけは事実だった。寵妃の勧めも断り続けてきた自分が、酒場の女性と行きずりの関係になろうとは……と。だが、不思議なことに罪悪感のようなものはなく、ただただ美しい想い出として彼の中には、彼女との事が残っていた。夜露に濡れた彼女の髪に触れながら、彼は自分が
実は教皇であることを告げた。
驚きながらも、そんなことは関係ない、この出逢いをただ嬉しく思うだけ……と彼女はいい、別れの口づけを彼の頬に残して、夜の野原を、星の精霊の如く、軽やかに駆け去ったのだった。
教皇は、そこで目を開け、まだぼうっとした頭を左右に振ると、椅子に座り直した。彼女との事は、甘いものであったが、その想い出に浸った後、教皇は必ず、その続きをも思い出す……。
そののち、五年の時が流れ、ある夜、いつものように聖地よりの力のせいで“悪夢”を見た彼は、押し寄せる虚脱感がいつものと違うことに気づいた。強い意志の力で、目覚めようとする間際、彼は小さな子どもの幻を見た。彼女によく似たまだ幼い子どもの……。
胸騒ぎを覚えた彼は、あの時、共として一緒に滞在していた事情を知っている老齢の文官にを調べに行かせ、そこでクラヴィスの存在が明らかになったのだった。父親が誰であるかをその胸に収めたまま、彼女は病床についていた。教皇庁からの文官が来たことで、クラヴィスの父親が教皇だったと知ると、酒場の経営者であり彼女の兄は、口止め料を含めた慰謝料を請求し、余命幾ばくもない彼女の為と称して、クラヴィスを教皇庁に引き取らせる事を迫ったのだった。
酒場の女との子である子どもを、セレスタイトに続く第二皇子として迎え入れるための困難は多かったが、教皇は、かつてないほどの強い姿勢で事を推し進めたのだった。ただ、その時の周囲の大人たちの様子は、まだ幼いクラヴィスに、自分の在り方を決めさせるようなものだった。多額の金を強請ろうとする伯父の姿、困惑する教皇庁の役人たち、
クラヴィスの教育係の者たちは、問われれば出身はヘイヤの貴族であると言うようにと強要する。常に好奇心の入り交じった目で見ている世話係りの女たち、優しくはあるが、どこかぎこちない新しい父と母……。
“強く生きなさい、何も恥じることない”と病床から送り出してくれた実母の言葉と、五歳違いの兄セレスタイトの表裏のない接し方だけを頼りにして、クラヴィスは、教皇庁というこの世界で一番美しい檻の中に住まうことになったのだった。
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