第八章 2

  
 夕暮れ。ヤンは、オスカーの眠る部屋の窓の鎧戸を閉めようとした。オスカーの熱は、微熱にまで下がり、浅い眠りの中で、やたらはっきりとしたうわ事を繰り返している。ジュリアスやオリヴィエの名前の合間に告げられるのは、“剣を……”、“西へ……”、と いう言葉だった。
 ヤンにとっては、意味不明な言葉ではあったが、次第にオスカーの意識が戻ってきているようで、嬉しく思っていた。

「夕焼けがきれいだなあ、ホゥヤンは、クゥアンより空気が澄んでいる気がしますね。でっかい夕陽……」
 ヤンは窓の外の夕陽を見ながら、背後で眠っているオスカーに語りかけるように言った。
「眩しいよ……」
「あ、すみません、すぐに窓幕を下げま……え?」
 ヤンは慌てて振り向いた。寝台の上で、横たわったままのオスカーの目が開いていた。
「オスカー様!」
 ヤンは、オスカーに縋って声をかけた。
「ヤンか……今、何時だ。当直、寝過ごしたかな?」
 兵舎にいると間違っているらしくオスカーは、ぼうっ……として言った。
「寝……すぎ……ですよ。でも……まだお休みになってていいですから……今日は非番じゃないですか……」
 ヤンは、ポロポロと涙を流しながら答えた。
「そうかぁ……じゃ、もう少し寝ているよ……うぅ………ん」
 オスカーは呻き声を上げて、また瞳を閉じた。ヤンは、その場からそっと離れると、隣室で夕食の用意をしていた騎士や夫婦に声を掛けた。
「今、オスカー様が目を開けたんですよ! 寝惚けてらっしゃる風だったけど……今、また眠られてしまったけど」
 泣きながら、そう言うヤンに、皆も安堵したように微笑み返した。
「俺……少し、風に当たってきます。ついでに泉の館の偵察にも行ってきます」
 ヤンは涙を拭うと、照れくさそうにしながら家を出た。
 自分たちが潜 んでいる農家から、ヤンは日課のように泉の館に偵察に出ている。特に夕方の偵察だけは欠かさない。その日、一日に見つかった物を袋に詰めてながらホゥヤン領主の動きなどの噂話をしている者たちが多かったからだ。

“あれ? 誰もいないや……今日は早めに切り上げたのかな。もしかして、もう調べるの止めたのかな……そうだな。もうここに残ってるの本当に瓦礫ばっかりだもんな……”
 ヤンは、館の敷地の角に積み上げられている焼けた木材や石材を見て溜息をついた。と。その時、馬の足音が響いてきた。
“チェッ、まだ偵察は欠かさないでいるみたいだな。しつこいや……”ヤンは慌てて、林の方へ移動した。そしてそのまま見つからぬよう村へ引き返そうとした。何気なく、ふと振り返った 彼は、泉の館の焼け跡にいるのが、いつものホゥヤン領主の配下の者たちでなく、赤い長上衣を身につけた第一騎士団の者たちであることに気づいた。
「おうい、おおおーーーい」
 叫びながら走るヤンに、騎士団の者たちが振り向く。
「何だ? 籠を背負ったヤツが走ってくるぞ」
「付近の農家の者だろう。何か野菜でも売りつけようって魂胆だろ」
「お、おい、ありゃ……ヤンだ! ヤンだぜ!」
 騎士たちも慌てて馬を降りると、一目散に駆けてくるヤンを迎えた。はあはあと、息が切れて物が言えない彼を、騎士の一人が強く抱きしめた。
「落ち着け、落ち着け!」
「だ、って、はぁはぁ……」
「ジュリアス様の命でホゥヤン領主は、さっき拘束した。全て明るみに出たのさ。俺たちは現場の様子を確かめに来たんだ。オスカー様の匿われている農家も探さねばならんと思っていた所だ」
 騎士は、ヤンの背中をさすってやりながらそう答えた。
「オリヴィエ様から大体の事は聞いている。オスカー殿と一緒なんだろう? ご無事か?」
「ええ。ついさっき、意識が戻ったんです。ちょっとだけだけど」
「そうか! よかった、よかったな」
 騎士たちは互いに喜び逢う。
「皆さん、これからどうするんですか?」
「後続の部隊が派遣されるまで、今しばらくは滞在することになる」
「そうですか。俺はもうしばらくオスカー様の側にいますね。爺ちゃんにもオスカー様のお世話を頼まれてるし。ああ、そうだ、爺ちゃん、来てますか?」
「いいや、ラオ殿は一緒じゃないよ。疲れているだろうからってオリヴィエ様が、お声を掛けるのを止められたんだ。けど、そういえばまったくラオ殿のお姿は見てないな」
「ああ。見ていないよ。兵舎の札もずっと裏返ったままだぜ」
 騎士団の兵舎に出てきた者は、自分の名前の札を表に返し、城内にいることを示すように決まっている。
「おかしいな……兵舎にも出ていないなんて。爺ちゃん、じっとしている性格じゃないんだけど。ちょっと無理してたから、具合悪いのかな……」
 ヤンは心配顔で俯いた。
「私だけは明日、クゥアンへ報告の為に引き返すんだ。お前も同行したらどうだ? オスカー殿の事なら、誰か別の者をつけてもいいし。オリヴィエ様の話によると、ジュリアス様が、良い医者をこちらに向けてよこして下さったそうだぞ。明日か明後日には到着すると思うが」
「そうしろよ、ヤン。オスカー殿の本宅も今頃は解放されているはずだ。医者の到着を待って、オスカー殿には移って貰うよ。お前だって学校がとうに始まっているだろ。所定の学業を修めないと騎士の称号が貰えないぞ」
「ええ……」
 いまひとつ煮え切らない態度のヤンだったが、ラオや学校の事は確かに気がかりだった。
「判りました。明日、一緒に戻ります」
「よし。じゃ、オスカー殿のいらっしゃるその農家に連れて行ってくれるか? ロウフォン殿付きの騎士の方にもこれからご協力を願う事もあるからな。紹介してくれ」
「はい」
 返事をしたヤンは、騎士たちの先頭に立って道案内をした。ゆったりと馬を引いて歩きながら、騎士の一人が、クゥアンでの動きをヤンに説明した。
「……それで、ツ・クゥアン卿はどうされましたか?」
 ヤンは騎士の話に、ツ・クゥアン卿が出てこないことを不思議に思い尋ねた。
「なんだ? お前まで。ホゥヤン領主も、ツ・クゥアン卿はどうしたとか叫んでいたよなぁ? ツ・クゥアン卿がどうかしたのか?」
 騎士がそう言うと、ヤンは、もしかしたら自分の憶測は根も葉もないことだったのかも知れない……と思った。
「い、いえ別に。ツ・クゥアン卿は、ホゥヤンとの窓口だったでしょう。こちらに来られるのかな……と思って」
 ヤンはそう誤魔化した。
「さあな。ホゥヤン領主が拘束されて、事実上、ホゥヤンには領主がいなくなったから、すぐに動きがあるだろうけどな。たぶんロウフォン殿が単独で領主になるんだろうな」
「そうですね。当然の事ですよね。早くきちんと決まればいいな。オスカー様もホッとされるに違いない。あ、ほら、あの家ですよ」
 ヤンは明るくそう言うと、目前に見えた家を指差した。窓から暖かい灯がこぼれている。屋根からゆったりと上がっていく煙には、鳥を焼く匂いが混じっている。穏やかな農村の夕暮れに、一仕事を終えた騎士たちとヤンは、心の奥が暖まっていくのを感じていた。

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