ひとしきりの強い雨が、やや治まって小降りになった頃、クラヴィスの涙も乾いていた。とにかく掃除をしなければならない……今、やれる事があるだけ、まだしも救われる……、そう思いながらクラヴィスは、バケツに水を汲んだ。明日には、ジュリアスから送られてくるカップが並ぶはずの棚を、クラヴィスは懸命に拭いた。一番下の棚を拭き終わった時、また宵闇亭の扉が開いた。
先ほどとは違い、すさまじく賑やかな扉の開き方だった。
「もう、結構、濡れちゃった〜やだやだ〜。オスカーのせいだよ」
「なんだとぉ」
「今日が雨になったのは、貴方たちの日頃の行いが悪いせいではありませんか?」
オリヴィエとオスカーとリュミエールである。三人は、それぞれダンボール箱を抱えて宵闇亭に飛び込んできた。いつものように唖然としているクラヴィスを余所に、三人は荷物を床の上に置くと、カウンターの前の席に座り込んだ。
「聞いてよ、マスター。オスカーったらさ、レコード運ぶのに、オープンカーを用意したのはいいけど、この雨だろ〜。オマケにホロが破れてて、雨漏りしてやんの。最悪だよ」
「でも、レコードの入った箱の上に、わたくしたちが覆い被さっていましたから、ほとんど濡れてはいませんのでご安心くださいね」
「俺が車をレンタルしなかったら、手押し車で運ぶしかなかったんだぞ。ちったぁ、感謝しろよ」
オスカーは、怒りながら背広のポケットから取りだした煙草に火をつけた。
「…………」
クラヴィスは代わる代わる三人を見た。
「マスター、お怪我の様子いかがです? 昨日、オリヴィエからお戻りになられたと聞いて、一刻でも早くと思って保管していたレコードを持参したのですけれど……」
小競り合いしているオリヴィエとオスカーの横で、リュミエールがクラヴィスの顔の痣を気にしながら言った。
「ああ……怪我は大したことはない……お前たちには世話になったな。レコードが無事で何よりだった。ありがとう」
「店を閉めるなんて言われちゃあ、俺たちにとっても大問題だからなァ、レコードだけでもと思ってさ」
オスカーがそういうと、オリヴィエとリュミエールも頷いた。
「ホントだよ、ツケの利く店が無くなると死活モンダイだもん〜」
オリヴィエは、ヒクヒクと眉毛を動かしながら言った。
「で、お店はいつ頃、再開されるのですか?」
「とりあえず、明後日ぐらいからなら珈琲くらいは出せそうなので、そうしようかと」
「それは有り難い。ここの珈琲がないと俺は毎朝、気合いが入らんからな。仕方なく蓬莱国迎賓館のラウンジを利用してたんだが、彼処の珈琲は、イマイチで……」
オスカーは煙草を吹かしながら溜息混じりに言った。
「あっ、その言葉、ジュリアス様にチクってやろーっと」
「ば、バカッ。お、俺の口には、彼処の珈琲は上品すぎて合わないって意味だっ」
「悪かったな、ウチのは下品な味で……」
クラヴィスが、ボソッとそう言うと、オリヴィエとリュミエールはケラケラと笑い合った。オスカーだけが、憮然として、今にも落ちそうになっている煙草の灰を捨てるべく、灰皿を探してキョロキョロとしていた。
「灰皿……ないのか? パクられた?」
「ああ……」
「何もかもだね……」
「ああ……」
「本当にひどい……」
「ああ……」
騒がしかった店内が一気に静かになった。
「あ〜ダメダメ、辛気くさいぢゃんか〜、灰皿なんか、この空き缶で代用しなってば」
オリヴィエは、流しの片隅に転がっている空き缶を見て、顎をしゃくった。
「オイルサーディンの缶か……油くさいとこがなんとも言えん……」
オスカーは渋々、クラヴィスからその空き缶を受け取った。
「せめて桃とかミカンの缶だったら良かったですね」
「まあな……」
「でも灰皿にするなら、サーディンの方が大きさ的にはいいよね」
「それは言えてるな」
三人がどうでもいいような会話を交わしている中、クラヴィスは、カウンターから出て、彼らが持ってきたダンボールの箱を開けてレコードを取り出しにかかっていた。そして、無造作に一番手前に入っていたレコードを取りだして蓄音機にかけた。ジジジ……という音が一瞬途絶え、軽快なピアノの音が滑り出す。
「ガーシュインだよね?」
オリヴィエは、少し自信なさげにリュミエールを見た。
「あ、この曲、わたくし好きです。タイトルなんでしたっけ?」
リュミエールは頷きながら、オスカーに聞いた。
「ラプソディー・イン・ブルーだ」
オスカーは、かなり短くなった煙草を、まだ銜えながら言った。
「やっぱり宵闇亭には音楽がないとね、マスターが無愛想な分さ」
オリヴィエは、クラヴィスにウィンクを飛ばしながら言った。
「ふん……景気づけの音楽が掛かったところで、お前たち。暇そうだな?」
クラヴィスは、バケツとモップを手に、珍しくニヤリと笑って言った。
おわり
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