数日後……。 オリヴィエは、知恵の木学園への差し入れの帰りに、宵闇亭に寄ってみた。オープンしていることを示す看板が扉の前に出ている。オリヴィエは、朱塗りの窓枠の間から中を伺ってみる。 カウンターにいつもの無愛想なマスターの姿がある。店内の備品はまだ不十分そうだが、それでもテーブル席にチラホラと数人の客がいるようである。
(再開したんだ……後でリュミエールとオスカーにも教えてやらなくっちゃ)
オリヴィエは扉を開けた。挽きたての豆の香りがする。と同時に、マスターの抑揚のない「いらっしゃいませ」の声がした。正確に言うと「いら……せ」だけしか聞こえないのだが。
「ん〜いい匂いだーー」
オリヴィエは鼻をクンクンさせながら、いつものカウンター席に、座った。なんだお前か? とでも言いたげな顔で、宵闇亭マスターことクラヴィスは「いつものでいいのか?」とオリヴィエに聞いた。
やって来たのが朝のうちなら、ブラック珈琲、昼過ぎならば、砂糖少し、夜なら、砂糖は入れずにミルクだけ。実はウィンナー珈琲が好きだが貧乏なので、これは月に一度のお楽しみ……オリヴィエの好みを、一応覚えているクラヴィスである。頷いたオリヴィエに、クラヴィスは黙って、暖めたカップの中に珈琲を注いだ。
「早いことオープンして良かったね。やっぱメニューは、まだ珈琲だけ?」
オリヴィエは店内を見渡して言った。
「ああ、今週いっぱいは珈琲だけだな。来週あたりから他の飲み物も出そうと思うが。夜の酒類や食い物はまだまだ無理だな」
「フルーツサンドイッチはぁ?」
「サンドイッチの類は、来週あたりから出来るかも知れないが、フルーツサンドはもう止める」
「ええええーーーっ」
「あれは不人気だ。ここ半年でアレを注文したのは、お前だけだ」
「ショック……マジで好きだったのに……」
「別料金出せば作ってやる」
そう言いながら、クラヴィス、はオリヴィエの前に珈琲を置いた。
「あれ……? カップ、なんだか前よか上等ぢゃん」
オリヴィエは優美なラインを描く持ち手に触れて言った。
「フン……気のせいだ」
クラヴィスはそっけなく言うと、オリヴィエの前からやや離れた。
「そうかなァ、この口あたりの感じとか、ただの白いカップだけど、どこなしか……」
オリヴィエの目が、きゅゅゅうと鋭くなった。
「これでもワタシは骨董屋なんだよ……」
絵・中村屋とらじゃさん
オリヴィエは、珈琲を入ったままのカップをそっと持ち上げて、底を見た。金色の神鳥マークと上品な筆記体で書かれたパラダイスホテルの銘……。
「あっ!」
オリヴィエは、声をあげるとカウンターの中のクラヴィスを見た。
「マスター……、アンタ……このカップってば……」
なおも、白い目でクラヴィスを見続けるオリヴィエ。その視線に負けてクラヴィスは重い口を開こうとした。
「実は……」
「いいって。よくあることさ。蓬莱国迎賓館は、お金持ちホテルなんだもん。多少の事は多目に見てくれるって」
オリヴィエは困り顔をしているクラヴィスに微笑みかけた。そしてさらに言った。
「カップの一個や二個、ガメったとこでどうってことないって。ワタシも前にさ、商談で行った時、灰皿をガメった事あるんだよねー。ブルーに金で神鳥が描いてあるヤツ。あんまり綺麗なんで、貰っちゃった。あ、それからね、ロビーでさ、人待ってる時に、仏蘭西の雑誌もガメっちゃったことあンだよねー。モード誌でさ、悪いかなーと思ったんだけど、つい」
クラヴィスは呆然としながらオリヴィエを見つめた。
「誰にも言やしないってばさーー。おや? それは? その棚の一番端にあるカップ……すごい高そう……見せてよ」
オリヴィエは、クラヴィスの背後の棚に飾ってあるカップ&ソーサーに目を付けた。
「これは預かりものなのでダメだ」
「なんだよー、見るくらい。預かりモノって、マイカップって事? へぇ……ここの常連にそんな上等そうなカップ使う人いたんだ。けどさ、ちょっとキワいね。白地だけど、それが見えなくなるくらい金色で、蔦と小さな薔薇が絡み合ってる模様。そして中も金塗りか……。持ち手には天使の羽根風の飾りモノが付いてる。ソーサーにはこれまた金の蔦模様を背景に、濃紺で、何か詩の一節が書いてあるみたい……? よくわからないけど。……一歩間違うと成金趣味だね。上海広しと言えども、そんなカップが似合う人って、蓬莱国迎賓館のジュリアス様くらいのもんじゃないか」
オリヴィエは笑いながらそう言った。それを聞くと、クラヴィスは、吹き出しそうになるのを必死で堪えて、棚からそのカップとソーサーを取りだした。湯を入れてサッとカップを暖めると珈琲を注ぐ、そして少し考えて、その中に、無造作に生クリーム絞り出して入れた。
「特別にサービスしてやる。飲め。ただしこの事は絶対、口外するな」
「え? マジ……? うわ、本当に高そうなカップ……え? 何々?」
オリヴィエはソーサーに描かれた文字を読んだ。
「えーっと、”とても高いところに……神様が……” 英語ってイマイチ苦手だ……」
オリヴィエが口を尖らせると、クラヴィスが静かに後を次いで言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ……と書いてあるらしい」
「へぇ。これってナントカの福音書とか言うヤツかな? ワタシってば一応、仏教徒だからよくわかんないよ……どこのカップだろうねぇ」
オリヴィエはソーサーをひっくり返した。
「……1901年8月16日…ジュリアス・L・セイント誕生記念……げ! マスター、これって……」
「新しい常連客のだ。大層なカップだろう、だが、祝い返しで創らせたもので、屋敷には腐るほど余っていて、飼い犬でさえそのカップにミルクを入れて飲んでいる。……らしいぞ」
クラヴィスの目は、思い切り笑っている。
「ひぇー、勿体ない。けどマスター……どうしてそんな事まで知ってるのさ?」
「さあな」
クラヴィスは、そう言うとまたオリヴィエの前から去り、無表情で、茶碗を洗い始めた。
「ふうん……ワケありかぁ……ま、いいや。ん〜上等のカップで飲むウィンナ珈琲は格別……いいなぁ、このカップ。そんなに何個も余ってるならガメらしてよ、マスター」
「割ってしまったことにしてやるから、そうしたら譲ってやろう。但し、店番と掃除一週間分で」
クラヴィスはニヤリと笑って言った。
「高すぎるよ! ワタシの時給は高いんだよ、せいぜいが二日だね」
「……一応それもウェッジウッドの逸品だぞ、高値がつくぞ」
「何言ってるのさ。セイントの銘が入ってるなら、表のオークション市場には出せないぢゃないのさ。こっそり売るにしたって、チクられちゃあ、ヤバイんだし。ワタシの私物として使わせてもらうしかないんだから。あ、でもジュリアス様に万が一の事があったり、セイントが破産すればレアだねぇ……」
「だろう? だから五日分でどうだ」
「ふん、セイントが破産なんかするもんか……三日! これ以上はまけられないね。まだ店がこんな調子だから人手不足なんだろ? さりとて人を雇うほどの余裕もなし。お見通しさ」
「……ふ……足元を見たな。……まあ、それでいい」
「商談成立。じゃあさ、これ飲んだら、さっそく持ってかえっていい?」
「いきなりはマズイだろう。いや、まぁよいか……その代わり、明日から三日間頼むぞ」
「オッケー。ん〜美しいカップだねーー、ジュリアス様にもピッタリかもしれないけど、ワタシのこの細くて白い指先に映えるったら〜」
オリヴィエは、目を細めてカップに口づけした。
そのカップの持ち主である新しい常連客が、今まさに宵闇亭の扉を開けようとしていることを、知る由もない二人であった。
チャンチャン
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