心の香り


  
 とはいえ食器の類もほとんどが失われており、珈琲一杯を出すことも困難な有様であった。釈放され店に戻ってきた時は、”豆とカップさえあればなんとかなる”と思っていたクラヴィスだが、一夜明けて冷静になってみると、それらを揃える金すら今の彼にはなかった。
 カウンターの引き出しに入れてあった支払いの金や、売上金の入っていた手提げの小さな金庫などは跡形もない。あるのは連行された時に、たまたまポケットに入っていた僅か一元だけだった。
 
「銀行の口座にいくらか残っていたはずだが……数日分くらいの豆代くらいにしかならないか……いっそ店を処分するしか……」
 と、クラヴィスは呟いた。店を売れば、ツケの支払いを済ませて、数ヶ月は食べていけるだけの金がなんとか手元に残るだろう。
「だが、しかし……」
 クラヴィスが、頭を抱えて目を閉じたその時、扉が開く音がした。そして、濡れた傘を閉じる重い音がした。

「クラヴィス……戻っていたか……」
 その声に、クラヴィスはハッとして顔をあげた。
「ジュリアス……」
「随分……酷い目に遭ったようだな……」
 ジュリアスは、クラヴィスの殴られて腫れ上がった口元を見て言った。クラヴィスが釈放されたのは、セイント財閥の総帥であるジュリアスが身元保証人になったからである。こちらから頼んだことではないとは言え、礼を言わねば……とクラヴィスは思う。が、言葉が出ない。無言でいるクラヴィスを見ると、ジュリアスの方もその事に触れるのやめ、荒れ果てた店内全体に視線を移した。

「この様子では、店の再開まで二、三日はかかるようだな。明後日あたりか?」
「さあ……な」
 クラヴィスは素っ気なく言った。
「それほど壊されているわけではない。備品の類さえ揃えば、すぐにでも再開できそうではないか?」
「…………」
 クラヴィスは答えなかった。
「私も最近は、亜米利加人との付き合いもあり、珈琲を飲むようになった。そなたの店はなかなか美味いと評判なので……」
 ジュリアスは、カウンターの席に軽く腰をかけて、そう言った。
「珈琲豆や備品を買う程度の金は、お前にとっては微々たるものなのだろう……」
 ジュリアスの言葉を遮り、クラヴィスは呟いた。心が荒んでいる……と思いながら。
 昔は、珈琲を口にしなかったジュリアスが自分を励ます為にそのような事を言っているとわかってはいる。今は、セイント財閥とは、無関係の人間である者の身元保証人になってくれたことも含めて、ジュリアスの方から、自分に歩み寄ろうとしているのは承知のクラヴィスだった。だが、口をついて出てくるのは、皮肉めいた一言だけであった。

「来週、大事な接客がある。亜米利加人で珈琲にうるさい。だが私のホテルの珈琲は口に合わぬという」
 今度は、ジュリアスの方が、クラヴィスの言葉を無視するように話し出した。
「蓬莱国迎賓館の珈琲は高いくせに不味いので有名だ。おかげで競馬帰りの客がこっちに流れてきて有り難いことだった」
 それを聞くとジュリアスの眉間に皺が寄った。
「だから、そなたの手を借りたい。その客をここにつれて来るから、なんとかせよ」
「頼み事をしているくせに命令口調か……。カップと豆持参で来ればなんとかしてやらないこともないが、店内は恐らくこのままだ」
 吐き捨てるようにクラヴィスは言った。
「そなた、本当に再建の目処は立たぬのか?」
 ジュリアスは初めて心配そうにそう言った。クラヴィスは答えない。 無言の店内に、湯の沸く音だけがシュンシュンと響いていた。
 

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