ジュリアスは、カウンターの中をを覗き込んだ。粗末な鍋の中で、湯が煮えていた。その横に、挽いた珈琲の粉が、少しだけ入った瓶が無造作に転がっていた。
「沸騰しているぞ」
ジュリアスは、座ったままのクラヴィスに告げる。クラヴィスは気怠そうに立ち上がり、カウンターの中に入った。
「珈琲を煎れるつもりであったのなら、一杯飲ませては貰えぬか」
気まずい雰囲気を一掃してしまいたい気持ちで、ジュリアスはそう言った。クラヴィスは黙ってただ、首を左右に振った。
「どうしてだ? 私に飲ませる珈琲はないと言うのか? 昨日、四川中路の骨董屋が、私のオフィスに来た。先日、この店の前で逢った時、私が何か用がある風だったので、そなたが戻ってきていると、わざわざ教えに来てくれたのだ。その時、珈琲を飲ませてもらったと言っていた。だから店を再開するのも、すぐだろうと言っていたぞ。だから私は今日、ここへ来たのだ。亜米利加人の客の接待は、そなたにとってもいい話しだと思って……」
クラヴィスに態度に耐えかねたジュリアスは、厳しい口調で言った。
「残っている粉は、私が連行される日の朝に挽いたものだ。味が変わってしまっているだろう。それに……」
クラヴィスはカウンターの上に、縁が欠け、薔薇模様のプリントが剥げたカップを静かに置いた。
「その薄汚れたカップが何だと言うのだ?」
「残っているカップはこれだけだ……あの骨董屋は、ああ見えても苦力もしていたことがある貧乏人だからな。多少の事には耐えられる体だ」
「それくらい、私は気にせぬ……」
ジュリアスはクラヴィスから目を逸らした。
「私が嫌なのだ。お前がこんなカップで珈琲を飲んでいるところを見たくない」
その言葉に、ジュリアスはクラヴィスに視線を戻した。
どうして……とジュリアスは心の中で呟いた。”深いところでもう既に分かり合えているのに……どうしてなのだ、クラヴィス? 私たちは何故、微笑み合うことが出来ない? 店を再建するために、もしも私に縋ってくれたら、どんなに嬉しいだろうか……” ジュリアスは俯いているクラヴィスを見ながら思っていた。ジュリアスはこれ以上会話をしているのが辛くなり、引き上げようとした。
「接待にどうしても必要ならば、その客が来る時間にそちらの厨房に手伝いに行ってもいい。どうせ……時間はある」
思いがけないクラヴィスの言葉だった。
「そうか……いや、だが」
一旦、返事をしかけて、ジュリアスは何かを思い付いたらしく言葉を飲み込んだ。
「…………。そなたの言う通り、蓬莱国迎賓館の珈琲はあまりよろしくないようなので、せっかく作らせてあった珈琲カップのストック邪魔で困っている。中古品なので半値でよいから引き取らぬか?」
それは嘘ではなかったが、そういう類の食器は、廃棄されるか、従業員の為の飲食用として回されるのが常だった。他に払い下げなどしていないことは、セイント財閥に身を置いていたクラヴィスならば承知のはずだった。見え透いた事を……と思いながらも、ジュリアスはそう言った。
「セイントの神鳥の紋章入りの茶碗を、ここで使えと言うのか?」
クラヴィスは鼻先で笑いながら答えた。
「父が、珈琲をホテルでも置くと決めた時は、まだ抵抗があったらしい。それで紋章は珈琲カップの底に入れてある。ひっくり返さずば見えはせぬ」
「…………」
クラヴィスは、ジュリアスの真意を推し量るように黙っていた。
「本当ならば廃棄処分にするつもりだったのだ。くれてやってもよいが、それでは意固地なそなたのことだ。気が済むまい」
ジュリアスは、わざと高飛車な態度でそう言った。
「捨てるつもりだったなら、貰う」
クラヴィスは、しばらく考えた後、そう言った。
「何? 貰うだと?」
「ああ。金は払わぬ。ありがたく貰う」
クラヴィスの言葉に、ジュリアスは耳を疑った。
「一体どうした風の吹き回しだ」
「お前のところの食器は、ウェッジウッドに作らせたものだろう。半値でも、うちで使っていたカップの三倍の値段だ。そんな金額が払えるくらいなら苦労はしない。相変わらず底辺の生活というものを知らんな……」
クラヴィスは、開き直ってそう言った。それを聞くと、ジュリアスはムッとした顔をしたまま、うっすら埃の積もった食器棚を指さして言った。
「……とにかく邪魔になっていたところだ、明日には運ばせるから、その薄汚れた棚を掃除して待っているがいい」
「せいぜい綺麗にしておこう。大層なカップに相応しいように……な」
クラヴィスは素っ気なく返事をした。
「では、邪魔をした」
ジュリアスは、立ち上がると、錆びた傘立ての中から自分の傘を手に取った。 ギィ……と扉を押す音とともに、やや強くなった雨が、玄関の床板を濡らす。
「車で来たのか?」
クラヴィスは、ジュリアスの背中に声をかけた。
「蓬莱国迎賓館は、すぐそこではないか。歩いて来たに決まっているだろう。それにさっきまで小降りだったからな」
「随分、降り出したな。足下が、濡れてしまうぞ……」
「仕方あるまい」
「悪かったな……せっかく来てくれたのに珈琲の一杯も出すことも出来ず」
クラヴィスの精一杯の言葉だった。ジュリアスの傘を開こうとする手が止まった。
「いや……かまわぬ」
ジュリアスは振り返らないで呟くようにそう言った。
「礼にもならぬだろうが、店が再開したら、いつでも珈琲をタダで飲ませやろう。屋敷から大層な自分用のカップでも持参するといい」
ジュリアスの背中にクラヴィスはそう言った。
「ふん。だが、珈琲の事は楽しみにしていよう」
そう言い残してジュリアスは傘を開き、降りしきる雨の中を帰って行った。
前進
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