心の香り



 荒れ果てた店内は、昨日と変わらない。割られた窓ガラスに応急処置で貼り付けた厚紙が、雨に打たれて破れ、役立たずになっている。クラヴィスはカウンターに入り、水が出るだけでもまだマシか……と思いながら歪んだブリキの鍋に水を汲み、コンロにかけた。それが沸く間、彼はひっくり返ったテーブルと椅子を起こしはじめた。
 丸テーブルは三つ、椅子は十二脚あったはずだが、数が足りない。
「椅子まで盗られていったのか……」
 クラヴィスは残った椅子に座って、ぼんやりと天井を見つめた。
 
 悪くない店だった……と、彼は改めて思っていた。
 元々、ここは日本人の資産家が、趣味で集めたレコードを聴かせるために経営していたカフェだった。急に日本に帰国しなければならなくなったそのオーナーから、レコードや蓄音機、備品ごと買い取ったのが、クラヴィスだった。
 前からの常連客もいたので、店はそこそこ繁盛していた。天井と窓だけが中華風であり、全体的には、洋館風という多国籍な雰囲気の店内には、クラッシックやジャズが鳴り、英吉利人から日本人、中国人と客層は雑多だった。競馬場帰りの貴族もいれば、苦力もいる。  結局は、それが工部局から目を付けられることになってしまったのだが。
 宵闇亭の常連客の一人が、阿片の密売に係わる男だった。男が逮捕され、売人との待ち合わせに、この店をよく利用していたことがわかると、当局はさらに余罪を追及し始めた。案の上、売買されていたのは阿片だけでなく、他の様々な情報もあったことから、国籍不明のクラヴィス自身も、それに関与しているはずと決めつけられスパイ容疑で、突然強制連行されたのが、四日前の事だった。
 結局、身元保証人のお陰で クラヴィスはようやく釈放され戻ってこれたものの、店にあった金目のものはほとんど盗まれていた。この店のシンボルでもある英吉利製の蓄音機は、コンソールタイプのもので、備え付けだったお陰で、奇跡的に無事だった。
 百枚以上はあったレコードは、この店の常連客であるオリヴィエとオスカーが、機転を効かせて運び出し無事であった。  

前進