オリヴィエが五羽目の鶴を折り追えた所で、何やら厨房の雲行きが怪しくなってきた。「またそれを言うのね?」と、ミレーヌの怒った声がした後、アランが何かを言う低い声が聞こえた。言い争う声がした後、厨房のドアがいきなり、バンッと乱暴に開けられ、「五月蠅いッ!」の声とともに、アランが 出て来た。彼は、驚いているオリヴィエを見ると、「驚かせて悪いかったね」と短く言い、雨の中に飛び出して行った。
「ミレーヌ、アランったら傘も持たずに行っちゃったよ」
心配そうにオリヴィエは、そう言ったが、ミレーヌは鼻息荒く、怒ったままで椅子に座ると足を組み、煙草に火を付けた。フーッと大きく煙を吸い込んだ後、しばらくぼんやりとしていた彼女は、ちょっと肩を竦めた後、「私ってバカね……」と呟いた。
さりげないそんな仕草さえ、映画のワンシーンのようだと思いながら、オリヴィエは、ミレーヌの前に座った。
「私たちが、追われるように故郷を出てきた事、前に話したでしょう?」
ミレーヌは、シャンソンの一節のように、低く響く声で呟く。
「うん。駆け落ちしたんだよね」
「ええ。その時の事、まだアランは気にしているのよ。アランの方が強引に私を連れ出したから。ふふ……結構、情熱的なのよ、彼。私をこんな風にしたのは自分だって思ってるのよ、二十年ほども経つのに」
今は、清純という言葉とは、ほど遠い円熟した美貌のミレーヌである。だが、彼女の十代を思うと、無垢な乙女だったかも知れない。田舎から出た来た彼女にとっては、夜の巴里の町は、さぞかし過酷だっただろう。自分のせいで彼女が汚れたと、男ならそれを罪の意識として持ち続けることもあるかも知れない。けれど、ミレーヌはもう中年なのだし、二人はちゃんと店まで持って暮らしているのだ。今更どうこう言う問題ではないように思える。オリヴィエにはアランの気持ちが、判らなかった。
「私もアランも、場末のクラブで働いて、必死でお金を貯めていたの。それで、十年ほど前にやっとこの店を手に入れたのよ。ワケありだったけど」
ミレーヌは、一旦、煙草を消してそう言った。
「ワケあり?」
「まあね。この店の前の持ち主は、出版社勤務が長かった人なの。仕事の傍ら、半ば、趣味でこの店を持ったと聞いたわ。だから、自然と芸術家さんたちの溜まり場になっていたんですって。この長ったらしい名前もその時のものなの。誰だったかな……詩人が付けたらしいわ。1910年頃からかしらね、だんだんとこの町にたむろしていたそんな人たちも、モンパルナスの方に移り住むようになってきた事もあって、店主自身も、もう歳だしってことで店を閉めようとしていたの。店主の売値は、私たちには高すぎたわ。けれど、店名や店の雰囲気を受け継ぐってことで、安くして貰ったのよ。おかげで、常連客もそのまま引き継げたから、私たちには良かったわ」
オリヴィエはミレーヌの話に、宵闇亭を重ねて、しみじみと聞いていた。
「いろいろあったけれど、今は幸せよ。いいえ、ずっと幸せだったわ。アランは何も気にすることはないのよ。だから私、アランが昔のことで、私に悪かった……みたいな態度をされると、腹が立って、つい……。でも、殴ったのは悪かったわ……」
「あらら……殴ったの?」
「つい、ピシャツと……」
ミレーヌは溜息をついた。
「じき、アランも帰ってくるよ……ね、珈琲でも煎れてあげようか?」
オリヴィエは、泣き出しそうになっているミレーヌを思いやってそう言った。
「いらない。珈琲はあの人の煎れたものでなきゃ、嫌」
我が儘な少女のような言い回しでミレーヌはそう言った。オリヴィエはそれが憎めず、水の入ったグラスを黙って彼女の前に置いた。