半時間ほど経って、ずぶ濡れになったアランが戻ってきた。オリヴィエを見ると少しきまりが悪そうにした後、後ろ手に持っていた薔薇一輪を、ミレーヌに差し出した。
「ごめん……。お前が嫌がるって知っていて、つい口に出してしまって」
 静かに、花を受け取ったミレーヌは、その匂いを嗅ぎ、グラスの中に突っ込んだ後、立ち上がった。
「薔薇をありがとう。でも、もう一つ、頂戴。愛の言葉も」
 アランはミレーヌの耳元で、「ジュ・テーム」と囁いている。オリヴィエの目の前では、既に濃厚なキスシーンが始まっている。彼のいることなどまったく眼中にない。
“うわ……ワタシの前なのに、舌、入れてるし……絡んでるし〜。こんな濃いキッスってば、仏蘭西人にしかできないよ……。アランってばずぶ濡れだから、よけい何かこうエッチっぽい……”
 オリヴィエが困っていると、ようやくキスを止めた二人が、オリヴィエに、向き直った。だが、しかしミレーヌの手はしっかりとアランの腰に回っているし、アランの手もミレーヌのお尻に触れている。
「オリヴィエ、ごめんなさいね、ちょっとの間、厨房には来ないで。客が来たら待たせといて」
 ミレーヌは、ウィンクすると、オリヴィエの返事を待たず、そのままアランと共にドアの向こうに消えた。
「……って? まさか……」 
 厨房からドタバタと物音がし、シン……と静まりかえったかと思うと、二人の喘ぎ声が微かに聞こえてきた。
「ち、ちょっとぉぉ」
 オリヴィエが、引きつりながら、なるべく二人の声の聞こえないようドアから離れた壁際に移動した。それでも、カタンカタンという調理台の揺れる規則正しい音が店内に響いてくる。 
「若い独身男の前で、よくもやってくれるよ……(-"-)」
 オリヴィエは情けない顔をして、その音を聞くまいと、ハタキを手にし、わざと乱暴に棚の置物や、壁一面に貼ってある絵や写真をパタパタと叩きだした。

 ミレーヌの言っていた芸術家の溜まり場だった頃のものだろう、色褪せてはいたが、リュミエールの喜びそうないい感じの素描が何枚も貼ってある。その横には、詩の一編。写真もある。皆、陽気そうに笑っている。記念撮影風のものや、わざとらしいポーズのもの、芝居のワンシーン……。どれにも何か短い言葉が書き込まれている。
 『夢と現実、狂気と理性』と書かれたものに写っているのは、たぶんダダやシュールレアリズムに傾倒していた芸術家のものだ。いい歳をした男たちの写真に、『バカ、マヌケ』などという子どもじみた落書きをしたものもある。
 アランとミレーヌの事を気にしないためにも、オリヴィエは、掃除をしながらそれらを眺めた。やがてオリヴィエの目は一枚の写真に釘づけになる。
 
 若い男たち……まだ少年みたいな男の写真だった。サクレクール寺院を背景に、緊張した顔つきで二人は写っている。意志の強そうなしっかりした顔付きの男と、目鼻立ちや顔の輪郭の綺麗な美男子と……。
 『巴里到着の記念に。僕らの明日の為に……』と書き込まれたその写真に写っているのは、若かりし頃のアランと……ミレーヌだった。名前までちゃんと書き込まれているから間違いはない。もっともミレーヌの名前は、ジャンと書かれてはいたが……。
「ええーーーっ、ミレーヌってばーーー」
 オリヴィエが驚いて思わす、厨房を振り返ったその時、彼らがまさに絶頂を向かえたらしい声が、一応はオリヴィエの存在を気にして我慢しているらしく一瞬だけ聞こえた。けれど、その後の二人の息を継ぐ音が激しく聞こえてくる。

「……………………ダメだ。あれじゃ、しばらく出てこれないよ、二人とも」
 オリヴィエは、そう呟くと、店のドアに『準備中』の札を掛けた……。

 

FIN
  

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