ふと、李は先ほど、黄が置いていったチラシに目をとめる。抗日スローガンの下に、日本で発行されたらしい新聞の粗末な写真が載っていた。黄の言った『日本語だからよくわからないでしょうけれど……』という何気ない言葉が今更ながらに李の心に突き刺さった。

(私はね……小黄、本当は日本人だったんですよ……)と彼は心の中で呟く。そしてもう一度、李が大きく溜息を付いた時、再び扉をノックする音と同時に黄の声が聞こえた。李が返事をすると黄は、扉を開けて言った。

「老師、お客様です。約束はしていないけれど、どうしてもと。緑さんと仰るんですが」
「緑さん?」
 李に心当たりはなかった。緑という姓に親しく付き合った者はいない。だが、黄の後ろに佇んでいるその人物の顔には見覚えがあった。 
 
 彼の名は、リョウショイジン……緑水晶という。風変わりなその名前は、上海経済界の大物の一人として知られている。だが李とは特に親しい間柄ではなかった。ただ、季節の行事ごとに彼は、以前、李の経営していた孤児院に寄付を持参していてくれたのである。慈善事業の売名行為だけではない何か……それが不純な動機であるかも知れないと、李は感づいていたが問うことは決してしなかった。
(オリヴィエが何も言わないのなら、私も何も聞くまい……)と。
その緑水晶が、李に北京にまで、会いに来る理由があるとすれば、もしやオリヴィエの事で何かあったのだろうか? 李は些か不安な面持ちで緑を部屋に招き入れた。


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