すると扉をノックする音が聞こえて、彼の助手である黄(ワン)という青年が、寝癖のついた髪を掻き上げて入室して来た。

「おはようございます。李老師(リー先生)」
「あー、おはよう。今朝も寒いですね、なかなか湯が沸かないですねぇ」
 温厚な彼は、誰に対してでもこのように丁寧な口調で話した。
「李老師は、お茶が本当に好きですね、とにかくまずお茶、だ。僕はコレだけど」
 黄は、手に持った煙草を一刻も早く吸いたくてたまらなそうにしていたが、煙草を吸わない李の手前、一応は我慢しているようだった。

「ええ、私はお茶がなくては一日が始まりませんからね……小黄(シャオワン/ワン君)、貴方もどうですか?」

 李は、市松模様の千代紙が貼り付けてある茶缶を手に取りそう言った。缶には京都の老舗の名前が書かれた色褪せた紙が貼られている。

「それは日本のお茶じゃありませんか?! 僕は飲みませんよ、そんなもの。前から言おうと思っていたんだ。老師、なんだってそんなものを飲むんですか?」
 黄は、握り拳を作り、挑むような目で茶缶を見ている。

「日本のやり方はどうかと思いますが、お茶は……別に……」
 李は、口ごもった。
「関係ありますよ……ふう。……でも朝から言い争いは止めましょう。とにかく僕は日本人の事は許せない、柳条湖の事件だって、ヤツらが企てたくせに濡れ衣をきせやがって。北大営には僕の兄が いたんですよ……巻き添えになって……」
 黄は、悔しそうに項垂れた。李はその肩にそっと手を置いた。

「小黄、すまなかった。貴方の気持ちも考えずに日本茶を勧めてしまうなんて迂闊でした」
 李は、年下の自分の部下に対して深く頭を垂れた。黄はその事に些か、たじろぎながら先ほどの勢いとはうって代わった小声で呟くように言った。

「い、いいえ、僕の方こそ。老師は、僕の兄が関東軍と戦って戦死したことはご存じなかったのだし。ただ、老師は色々な事をよくご存じなのに、政治の事になるとあまり発言なさらない。芸術家なのでそういう事にあまり興味がないのかも知れないけれど……」

「確かに……私は、血なまぐさい話が苦手でしてね。ただの臆病者なんですね……それに……上海にいた頃、日本人の友人も何人かいましてね。彼らは皆、いい人だったから……同じ亜細亜に住む者同士、仲良くできないものかと、ただそれだけを思ってしまうのですよ」

「日本人となんか仲良くできるのかな……本当にそうなれば、いいんだろうけれど……ああ、そうだ。僕、後で少し講堂の方に行ってもいいでしょうか? 抗日運動の集会があるんです。できれば老師にも来て欲しい。皆、喜びますよ……その集会のチラシ、ここに置いておきます。仲間が手に入れた日本の新聞を写したものなんです。日本語だからよくわからないでしょうけれど、ほら、ここ。ひどい書かれ様なのはなんとなくわかるでしょう? お時間があって、もし気が向いたら来てください。じゃ僕、隣の部屋で時間が来るまで書き物をしていますから、用があったら呼んでください」
 黄は、李の机の上に皺だらけのチラシを一枚置いて出ていった。

「ふう……」
 と李は溜息をついた。あの祖國を思う一途な気持ちに嘘を突き通すのは辛い……と。彼の沈んだ気持ちを慰めるように、湯の沸く音が、シャンシャンと部屋に響きだした。黄が断固として飲むのを拒んだ日本茶の缶を、李はそっと棚にもどし、少し考えてから使い込んだ工夫茶器の一揃えを取りだした。
 優雅な曲線を描く宜興紫砂の茶壺に沸き立ての湯を注ぐ。茶壷に入れたお湯を茶海に移し、更に茶杯に注ぎそれぞれの茶器を暖める。儀式のようなその手順に従っていると、ようやくその湯気と相俟って、冷え切っていた彼の研究室に、ほのかな暖かさが留まってきたようだった。


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