1927.10.14.Fryday 黄浦江……上海 |
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暑さの残る九月が過ぎ、心地よい風が吹き始めた十月……。空は突き抜けるように青い。その空の色と対照的にいつものように泥色をした黄浦江の埠頭に幾艘もの帆船が碇泊している。ジャンク船と呼ばれるものだ。漁業や荷物を運ぶための薄汚れた帆船の中に、見た目は他のものとそう変わりはないが、船室部分をやや大きく造ってあるものがあった。実は、緑グループが、内密の商談や接待に使用する為の偽ジャンク船で、内部はホテルの応接室のように豪華な造りになっているものだった。 急にカティスから呼び出されたオリヴィエとリュミエールは、てっきり本社ビルに向かうものと思って、彼の寄こした車に乗り込んだのだが、車は反対方向の黄浦江の埠頭へと向かったのだった。車に乗るほどの距離でもな いから、あっという間に埠頭に到着すると、その帆船に乗り込むよう指示されたのだった。しばらく待っているとオスカーがやって来た。 「よお」 「あれ? ジュリアス様と一緒じゃなかったの?」 「蓬莱国賓館から来たんじゃないんだ。もういいだろうってことで、一昨日、アパートへ帰ってた。水夢に行こうと思ってたんだが、部屋が荒らされたままで掃除に苦労してたんだ」 「言ってくれればお手伝いに行きましたのに」 「ありがとう。そうも思ったんだが、孫の手下にお前たちが出入りしてるところを見られでもしたら厄介だしなあ。ところで、ジュリアス様とカティスさんもまだ来てないのか?」 「うん、呼び出した当の本人は、道が混んでいて遅れてるんだって。さっき緑カンパニーの人が伝えに来たよ」 「ははあ。パレードにひっかかったんだな」 オスカーは肩を竦め、遠慮無くふかふかのソファに座り込んだ。 「パレード?」 「明日開店する孫のダンスホールの宣伝カーさ。オープンカーでグルグル回ってやがるんだ。風船だの派手に飾ってな」 「そう言えば、さっきから……」 リュミエールは天を指さす。たまにドドーンと花火の音がしている。 明日の晩、本格的に打ち上げられる花火の試し打ちだ。 「開店のセレモニーに花火とは派手なことしやがるなあ……」 オスカーが呆れて空を見上げる。 「まったくだよ」 オリヴィエも面白くなさそうに言う。 「お前たち、招待状、届いてるんだろう?」 「それどころじゃないさ。あれから何度もダンスホールで働くようにって催促が来たよ」 「手下がやって来て商売の邪魔もしたんですよ」 「ここ一週間ばかりはさすがにワタシたちにちょっかい出してる余裕がないらしく来ないけど、招待状は来た」 オリヴィエはポケットからそれを取り出す。赤い絹地に金文字で店名が刺繍されている。 「ヒュゥ〜。VIP向けの招待状じゃないか? それ」 オスカーは口笛を吹いた。 「ジュリアス様の所にも招待状は届いてるんだろう?」 「だろうな。でも欠席されるんじゃないのかな」 「でしょうね。最近、経済界の動きはどうなんですか? 新聞にはいろいろ載っていますけど、実際のところ」 「どうだかな。俺が手伝ってたのはセイント財閥の輸出入部門のごくごく一部だったからな」 「例のあの顧客リスト流出の?」 「ああ、台帳の不審な点の洗い出しさ。それと顧客先に一件、一件、ジュリアス様が自ら頭を下げられたんだぜ。俺はその姿に頭が下がったぜ」 「ふうん。トップは大変なんだねえ」 「お陰で不信感も一掃され、元通りの取引が再開したから被害は少なくて済んだようだな」 「そのスパイしていた会社って孫の配下に入ったんですよね? 上手く行ってるのでしょうか?」 「セイント財閥との取引より三%低い手数料で誘いをかけて、それなりに顧客の横取りには成功したみたいだけどな。でも……背後から、そういうことをした会社だと噂が立って、今じゃ九割方、顧客は元通りさ」 オスカーはニヤリと笑う。 「その噂って……どこからどう流れたんだか……」 「ジュリアス様だってただ高潔なだけのお方じゃないさ」 「うわーー、こわーーーい」 オリヴィエの大袈裟な身振りに、オスカーとリュミエールは声をあげて笑う。 「あはははは」 「ふふふふ」 三人が笑い合っているところに、カティスとジュリアスが並んで入ってきた。二人とも黒いタキシード姿でめかし込んでいる。 「なんだ? 笑い声がしていたぞ。楽しそうだな。遅れてすまんな。あのバカの宣伝カーのせいで南京路がふさがっちまって遠回りだ。歩いた方が早かった」 「まったく迷惑もいいところだ。さきほど工部局の知り合いに、公道でこんなことはいかがなものか? と意見しておいたからもう間もなく落ち着くと思うが」 とジュリアスが言うと、オリヴィエとオスカー、リュミエールが、小さく「やっぱりコワーイ」と呟いた。 「ところで、どうしてお二人とも正装なんです?」 オスカーが首を傾げる。こんな昼間から完璧な正装が必要なほどのパーティなどないはずだった。 「祝い事のちょっとした記者会見があってな」 カティスは嬉しそうにそう言い、ジュリアスに同意を求めるように見た。ジュリアスの方は、軽い微笑みを見せた後、思わせぶりに髪を掻き上げた。 「まさか……二人の婚約発表……」 と呟いたオリヴィエの後で、リュミエールが、「そんなワケなんでしょっ!」とツッコむ。 「いや……婚約だ。なあ、ジュリアス」 「そうだな。そう言っても良いだろう」 二人は向き合い微笑み合う。そのラブラブな雰囲気に三人は固まった。 「ジュリアス……様……、そ、そんな。俺、ここの所ずっとお側にいましたけどそんな素振りは」 オスカーは愕然としている。 「うむ。秘密裏に事を進めていたのでな。そなたにまで黙っているのは心苦しいものがあった」 「カティス……でもカミングアウトして大丈夫なの? 世間の風あたりは……」 オリヴィエは心配そうにしている。 「なぁに。俺は元々、美楽園を経営してるんだし、悪い噂には慣れてる。だが、ジュリアスの方は、名門だから大変だったろう?」 優しげに労るようにカティスがジュリアスに言う。 「言いたいものには言わせておけばよいのだ」 凛と言い放ったジュリアスの高潔さはいつもと変わりない。 「でも……」 リュミエールは、ショックが隠せない。オリヴィエにチョッカイを出していたカティスさんはともかく、あのジュリアス様までもソッチのお方になってしまわれたとは……と。 「まあ、座ってくれ」 カティスは、三人とジュリアスを座らせた。彼らが座ったのと同時にギイッと船が縦に軋んで揺れる。 「さて、今日集まって貰ったのは、そのジュリアスとの婚約の発表の祝宴の前祝いをしようと思ってな。明日の夜、蓬莱国賓館の大ホールで急遽、パーティを開くことにしたんだ」 カティスはこれ以上楽しいことはないといった顔をしている。 「明日の夜って……」 オリヴィエがハッとして呟く。 「そう、ヤツのダンスホールのオープンだ」 「でも招待状は……」 リュミエールは例の絹地貼りの招待状を見せる。 「おや、行く気だったのかい?」 「いいえ! わたくしたちは、もちろん行くつもりなどありませんが、上海の要人には全て送られたと聞きました。でも、そちらのパーティは招待状、ないのでしょう?」 「だからさっき記者会見で、急なことなので招待状は出していないが、誰でも勝手にお越しくださいと言っておいた。ただし正装で……と。だからまあ、タキシードやドレスを持っていない連中は入れないわけだし、多少関係ない人物が入り込んでも別にどうってことないさ。ま、場所が蓬莱国賓館だからガードも高いしな」 ニコニコ笑っているカティスと静かに微笑んでいるジュリアスの顔を交互に見ながら、オリヴィエたちは唖然としたままだ。 「あの……カティス?」 恐る恐るオリヴィエが問いかける。 「なぁんだい? オリヴィエ」 カティスの上機嫌は並々ならぬものがある。小さい子どもに返事するように小首を傾げる彼にオリヴィエは、“うっ……”と思いながらも「婚約って……本当?」と聞いた。お決まりのポーズと声で「妬いてるのかい?」とカティスが言うより先に、ジュリアスが、「もういいだろう? カティス。この者たちは大いなる誤解を解いても?」と返事をした。 「もう終わりか? チエッ、せっかく面白かったのに」 カティスはソファに座り直す。 「婚約……という言い方は比喩だ。サクリア財閥の子会社と緑グループの子会社が合併し、新会社を設立する。その発表記者会見をしたのだ」 「新……会社……」 「合併……」 オリヴィエとリュミエールは同時に呟いた。 「今回の件で、ジュリアスと接触するうち意気投合した部分があってな。子会社とはいえ、サクリア財閥と緑グループが事実上、手を結んだんだ。上海経済界には衝撃が走ったぜ」 「この中國奥地や澳門(マカオ)にまで販売ルートを持つ緑グループと、欧州、亜米利加にも販売ルートをもつサクリア財閥が手を結べば……ユーラシア大陸の販売ルートの制覇だ」 オスカーの呟きにジュリアスが頷く。 「これまで賊が出る為に手の出せなかった大陸奥地にまで販売ルートが拡大するのは当方にとって有り難いことだ」 「そして俺のところは欧州進出だ。カティス製菓の自慢のチョコレエイト【オリヴィエッタ】の繊細な味は絶対、欧州でも人気爆発だぜ」 「自社製品だけの販売ではなく、他社製品についても調査や分析を行い販売戦略の構築、運搬費用の運用貸し付けまでをワンストップで提供するトータルマーケティング事業も手がけるつもりだ」 二人の企業人は興奮冷めやらぬ雰囲気である。 「はあ……」 だが、話が大きすぎて庶民にはいまいち感覚が掴めない。 「つまり、物を売りたいなら、俺たちの会社を通したほうが話は早いぞ……ということだな」 カティスは人差し指を立てながらウィンクする。 「アンタが言うと、この会社を通さないと何かあっても知らんぞ……って聞こえるんですケド……」 オリヴィエは鼻をフフンと鳴らしつつ言う。 「別に余所の企業を締めだそうとしているわけじゃないさ。この上海をベースにして販売ルートを広げ、かつ安全にしようとしているだけさ。大陸奥地へのルートの治安が良くなれば他の会社の為にもなるんだしな」 「そりゃそうだけど……。で、明日のパーティ……、一体どういうことになるんだろう」 もう花火の試し打ちの音はしていないが、オリヴィエは船室の窓から外を見上げた。 「セイントや緑グループと繋がりのある会社の人たちは当然、蓬莱国賓館に行きますよね」 「だろうな。いくら豪華だとはいえ所詮、あっちはダンスホールのオープン記念」 リュミエールとオスカーは頷き合う。 「掛け持ちって手もあるんじゃない? 例えば、ダンスホールのオープニングセレモニーだけ出で、すぐに蓬莱国賓館に駆けつければ……」 そう言ったオリヴィエに、カティスが、自信たっぷりに笑う。 「明日は、正装姿の紳士淑女が上海の町を大移動かもな。だが、蓬莱国賓館の大ホールでのパーティだぜ。そこらのものとは格式が違う。それに俺たち二人が一堂に会して出迎えるんだぜ」 勝ちは決まったも同然だとばかりに笑うカティスの横で、ジュリアスは相変わらず澄ましている。 「パーティとオープンの日をぶつけるなどと、このようなやり方は本意ではなかったが」 穏やかだったジュリアスの表情が険しくなる。 「オリヴィエ、お前たちへの招待状は赤い絹地貼りのVIP用だが、俺たちの所に来たのは、ただの一般客用の紙切れ一枚だ、飲み物の割引チケット入り。誰が使うか!」 怒りながらそう言ったカティスの横では、ジュリアスの表情もさらに曇っている。 「孫氏は、香港からやって来る客の為にと、蓬莱国賓館のワンフロア分の部屋を予約していたのだが、直前になってキャンセルしたのだ。キャンセル料のかからぬギリギリのタイミングで 。そして、その代わりとなったのが、孫が先日、買収した蘇州路にあるホテルなのだ。老夫婦が営む小さな良いホテルであったのに、半ば無理矢理、騙し取るように! ショックのあまり奥方は、寝込まれてしまったのだぞ」 ジュリアスは、ギリッと音がしそうなほどソファの肘掛けを掴んだ。メラメラと怒りのオーラが見えるようで、カティスを含めたその場にいた全員が思わず、“怖!”と思うほどだった。 「と、いうわけだ。明日のパーティにはお前たちも当然来てくれれば良いが、来客の多い中では、落ち着いて話も出来んし、これから新会社の事で忙しくなってなかなか時間も取れそうにないんでな」 カティスは、側にあった呼び鈴を鳴らし、船室の外に立っていた手下の者に合図した。たちまちワインとグラスが運ばれてくる。 「つまりは、水晶玉絡みの孫のことは、今日で打ち上げって事だね」 「ああ。ヤツの事業は、確実に明日を境に下り坂になるだろう。 不動産にしても株にしても、占い通り強気な買いに出ているからな。そろそろこっちも手を打つつもりだ。それに、あのダンスホールをベースにして人脈を作ろうとしているらしいが、そんなもの一朝一夕に出来るものでもない し。多額の金で引き抜いた綺麗どころも、金の切れ目が縁の切れ目だからな。商売には波があるから、たとえ今、落ち込んだとしても、じっとそれを持ちこたえればいいんだが、そこを踏ん張って堪え忍ぶだけの度量は 、今のヤツにはないだろうさ」 ジュリアスのグラスにワインを注ぎながら、カティスは嗤う。 「我らは我らの成すべき事をしているだけだ。人を陥れてまで築いた財など砂上の楼閣。自滅への道を彼は一人勝手に進んでいるだけだ」 ジュリアスはサラリとそう言うと、カティスにワインを注ぎ返した。これ以上は望めぬほどの生地と仕立ての完璧なタキシードを着込んだ二人が、酒を酌み交わしつつ、シビアな会話をする様は、一枚絵のようだった。 「何か……ワタシたち三人との間に、ものすごい太い一線が引かれてる気がする……」 オリヴィエは自分の色褪せた綿のシャツ姿と比較して言う。 「お前たちと一緒にするな。俺はまだ上着を着てるぞ……」 「十月なのにいつまで麻の上着なんですか?」 「去年のウールの上着、虫に喰われて穴が開いてたんで、かけはぎに出してるんだよ……」 ブツブツと言い合う三人をカティスがチラリと見た。 「何、言ってんだ? さ、お前たちも飲めよ。もうじき料理も来る。海風飯店からな」 「ホントッ?! わーい、わーい〜、残したらお持ち帰りしていい?」 「オリヴィエ……、お前、ブライドってもんは……」 「この場合はない。とことん金持ちのこの二人の前で、どんなプライドが通用すると?」 「オリヴィエ、だから俺の愛人になれば毎日、海風飯店で食事だぞ?」 「お・こ・と・わ・り。毎日、中華なんて。たまに食べるから美味しいんだよ」 「では、私ではどうだろう? 蓬莱国賓館には、和洋中全てのシェフがいる。それに専属のパティシェもいるが?」 ジュリアスがサラッとそう言った。揺らいでいた船までもが、ピタッ……と止まりそうなほどにその場の空気が固まり、そして……。 「なります! 俺がなる」 「何、言ってんのさ、ジュリアス様はワタシに、って」 「あの……わたくしも、この際……。確か蓬莱国賓館の中には、画材道具なども置いている小間物ショップもありましたし」 騒ぎ出す三人を余所にジュリアスは、クックッと笑っている。カティスはそんなジュリアスの肩に手を回し、「五月蠅い貧乏人どもめ、冗談に決まっているだろう。さあ、ほらほら、料理が来たようだぞ」と豪快に笑う。 「あっ、オリヴィエとリュミエール、それにオスカーさんまで……」 と声を上げたのは、料理を持ってきた海風飯店でコックをしているランディである。 「おや、ランディじゃないかー。ご苦労様、ささ、料理をズラーーーッと並べて並べて」 オリヴィエが得意気に言う。 「なんだよ。どうせ奢りのクセに……。でも、いいなあ……」 「あ、ちょっと、そのパイナップルと鶏肉の炒め物は、ワタシの前にお置き!」 「まったく、卑しいんだから……」 ブツブツ言いながらランディは料理を並べ終えると、カティスに向かってペコリと頭を下げた。 「ご注文ありがとうございました」 「ん。オリヴィエたちの知り合いだったのかい?」 「はい。知恵の木学園で一緒でした。俺、弟分みたいなものです」 「そうか。どうだい、ぼうや。君も食べていくかい?」 カティスが優しげに微笑む。 「あの……し、仕事中ですからっ。し、失礼しますっ」 慌てて逃げるように去っていくランディだった。 「とって食いそうに見えたんだよ、きっと……」 プププとオリヴィエは笑った後、元気よく「戴きます」と声をあげて箸を持った。
ひとしきり朗らかに酒と料理を楽しんだ後、オリヴィエがその場を締めくくるように、ポケットから、例の水晶玉を取り出した。 終 劇 |
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後あとがき |