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ただひとつの想い   

 なだらかな登り道の途中に、小さな苔生した石がある。それは薄桃色の花を付けた草を抱くようにして道の端に転がっている。誰もが見過ごしてしまうような、ただそれだけの存在に、友雅は目を留てしまったのだった。戦いの最中に、ほんの一瞬、一秒にも満たない、瞬きほどの刹那に。
 
そして次の瞬間……。
「きゃあっ」
 あかねは、怨霊の放った気に、はじき飛ばされ、尻餅をついた。
「だ、大丈夫、た、鷹通さん、友雅さん、気をつけて」
 あかねは瞳をグッと閉じながら、かろうじてそう言った。
「おのれ怨霊!」
 鷹通の”陽光天上”が、怨霊の頭上に大輪を描きつつ降り注ぐ。
《クッ……くちおしや……》
 くぐもった声が聞こえたかと思うと、怨霊はかき消えた。
「神子どのっ」
 友雅は、慌ててぐったりしているあかねを抱き起こした。
「なんだかすごく気分が悪い……」
 それだけ言うと、あかねはまた瞳を閉じた。
「真正面から怨霊の気を受けられてしまったからでは?」
 鷹通も心配そうにあかねを覗き込んだ。
「そうかも知れない。となると我々では手に負えないな。ともかくお屋敷までお連れしよう」
 友雅はあかねをそっと抱え上げた。
「私は馬で先に戻りましょう。泰明どのは今日は、陰陽寮に詰めているはず……すぐに神子どのを診てもらえるように土御門殿の方にお連れしておきます」
「すまないね、鷹通」
 友雅はそういうと、近くに待たさせてあった牛車に、あかねを抱いたまま乗り込んだ。ギイッと音を発てて車輪が回り出す。ガタンと大きく一度揺れる。その振動にあかねは少し驚いて目を開けた。
「大丈夫かい?」
「ぼうっ……としてて。少し寒いです……眩暈も少し」
 あかねは、小さな掠れた声で言った。
「なるべく早く館に戻るからね、しばらくはこうしていなさい」
 友雅は、胡座を汲んだ足の隙間に、あかねの腰を落とすようにして座らせて抱え込んでいる。こくんと頷いたあかねを見ると、友雅は辛そうに言った。
「すまなかった……」
「え?」
「盾になれなかった。そのつもりで、神子どのの前に出ようとしたのに。あの時、私は違うものに気を取られていて一瞬、出遅れてしまった」
「違うもの?」
「路傍の石と野花にね……ふと目に入った。そして心が束の間、それに囚われた」
「綺麗だったんでしょう? 私も見たかったなぁ……」
「綺麗というよりかは愛らしいといった風情かな。心が温かくなるような……。私は最近そういったものに弱くてね、つい目を留めてしまう。よりによって戦いの最中にまで……。龍神がそんな私に罰を下さったのかも知れないね」
 友雅は、抱き込んでいるあかねの青ざめた頬に触れた。あかねは何も言わない。
「神子どの、苦しいのかい?」
「ううん……友雅さん……なんだか眠いの……何か引き込まれていくみたい……少し眠ります……ね」
 かろうじてあかねはそう言った。と同時に友雅の腕の中にズシリと彼女の重みが伝わった。
「…………」
 友雅は、あかねの頬に触れていた指をそのまま、乾いた彼女の唇にまで這わせた。あかねの反応はない。友雅は、眠っているあかねの顔を覗き込んだ。少し苦しそうに眉間に皺が寄り、額が冷や汗でやや汗ばんでいる。何か辛い夢でも見ているのだろうか? いや、それともどこか違う処においでなのか? そこは辛い場所なのでは?……と友雅はあかねの様子を推し量ろうと必死である。
「何もわからない……君が苦しんでいるのに……こんなに近くにいるのに。こうして君の汗を吸おうと近寄ってくる忌々しい羽虫を払いのけることくらいしか私にはできないのか……」
 どこからか紛れ込んだ一匹の羽虫を、掌で払いながら友雅は呟いた。
 
「う……うう……」
 友雅の腕の中で、あかねが呻いた。先ほどまで青ざめていた頬に赤味が戻り、体が火照るように熱い。
「暑いのかい?」
 深い眠りの中にいるあかねは返事をしない。友雅は、あかねの水干の紐をほどき、襟元を少し開けた。友雅は、白い首筋から鎖骨に漂う線に目を奪われる。やるせない溜息をつきながら友雅は、あかねの顔から目を逸らす。だが、視線を逸らせた先にあるのは、スカートから露わになっているあかねの太股である。
「ここまで来ると試練だねぇ」
 友雅は苦笑いしながら、あかねの足を自分の衣の袖で隠した。
「わかっているよ、帝のお言葉に従い、龍神の御心に従い、私は貴女をお守りする八葉ですから……ふう……ちょっと、頼久っぽかったかな?」
 友雅は自嘲しながら言う。
「辛くて……甘やかな罰を下されたものだね、龍神は。……随分じゃないか……」
 
 やがて牛車の揺れがやや穏やかになり、道がよくなってきたことが友雅にも伝わった。コツコツと小さな玉砂利を弾く音も、土御門の屋敷が近いことを示している。
 ややあって牛車は、中にいる二人を気使うように、車寄せにそっと停止した。
「友雅どの。鷹通どのからお話は伺っております。神子どのは?」
 心配顔の頼久が、真っ先に飛び出してきて尋ねた。
「眠っておいでだよ。穏やかなお顔に戻られたけれど」
 友雅は、自分の腕の中のあかねを、頼久に見せた。頼久は、友雅からあかねをすくい上げるように受け取った。
「友雅どのもお疲れでは? 藤姫様が、膳を用意させてありますのでゆっくりなさってくださいと……」
「有り難いねぇ。大切な人をずっと抱きしめていたからねぇ、嬉しくもあったが、なかなか辛いものもあったよ」
 友雅は両腕をさすりながらいつもの調子で頼久に言った。
「うむ……問題ない……怨霊の気を受け留めた為、一時の事だったのだろう。このまま休ませておけばいい」
 とその時、頼久の後に控えていた泰明が、まだ眠りの中にいるあかねを覗き込んで言った。
「では、このままとりあえず、部屋の方にお運び致します」
 頼久も安心した様子で、二人に一礼すると去って行った。
「よく耐えたな」
 泰明は、ぼそっとそう言って友雅を見た。
「そうだね。神子どのはずいぶん強くなられたよ」
「神子ではない、友雅が」
「え?」
 意味が判らず首を傾げた友雅を無視して泰明は言った。
「あの場面でよく耐えた」
「?」
「しかし、たかが羽虫。あのように思い切り、払い除けずともいいものを」
 微かに微かに泰明の目が笑っているように見える。
「…………式か」
 友雅はムッとして言った。
「心配して伺いに参ったのだ、許せ」
「敵わないねぇ、私にもそのような力があれば、どのような状態に神子どのがいるのか判っただろうに。苦しんでいても何もできなかった……」
「何を言う……友雅が怨霊の気から神子を守ったのだ」
「何もしなかったが」
「抱きしめて、心で叫んでいたろう。想いは心の深淵にまで届く。無意識であればあるほど真っ直ぐに。それが神子には何より効いた」
「ふうん……。まぁ……確かに神子どのの事に対しては、私は、もはや涅槃の域に達したかも知れないねぇ」
「友雅の場合は、彼岸の川縁で昼寝をしているようなものだろう。そのうち報われる日も来るだろう」
「だと良いけれど。その時が来たらどんなに神子どの気が揺れても、式は遣わすことはしないで貰いたいな」
「問題ない。その時は、もう神子は神子ではないのだから」
「なるほど」
 友雅は深く頷いた。そして、その時の事を思って、クスリ……と小さく笑った。
「そういう想いは邪念と言って、なかなか相手の心には届かぬものだが……」
 幸せな想像を楽しんでいる友雅の耳には、泰明の呟きは聞こえなかったようである……。
 
 



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