緑の館は、光の館から平坦な野原を挟んで比較的近くにある。さらに闇の館へ行くには、川沿を上流へと伝っていく。小川といった風情の浅い河が、だんだんと深くなる。森の湖が、いくつかの池を作り、そこから流れ出した川は、クラヴィスの館の側を流れている。そのせいもあり、彼の館のあたりは、鬱蒼とした木が生い茂った中にあり、小動物も多い。   
 庭や館の回りに、手を加えることを嫌ったクラヴィスらしい、自然のままの緑が取り囲む館の側までやってきたジュリアスは、馬車を、館に続く小径の脇で、一旦停めさせた。
「ここから先は歩こう。少し長居をするかも知れぬ。そなたは先に館に戻るように」
 御者にそう告げて、ジュリアスは馬車を降りた。そして、無造作だが一応は足場の良いように敷かれた石畳を通って、館の玄関に辿り着いた。

 突然の光の守護聖の訪問に、側仕えたちは慌てながらジュリアスを出迎えると、落ち着いた雰囲気の応接室に彼を通し、クラヴィスを呼びに戻った。クラヴィスの館は、ジュリアスにとっては、幼い頃、何度も訪問した懐かしい場所でもあった。応接室の様子も昔とほとんど変わらない。ふと見ると、読みかけの本が数冊、ソファの片隅のティテーブルに置いてあり、背表紙に貼られた小さな印が、ルヴァの管理する所の王立図書館のものであることを示している。主星の古典と、辺境の星の建物の写真集……。
“アレも寝ているばかりではないようだ……”と思い、何かしら可笑しい気持ちになるジュリアスであった。
「お前か……」
 とジュリアスの背後で、クラヴィスの声がした。
「クラヴィス、突然の訪問、すまぬが……」
 と言いかけたジュリアスに、クラヴィスが、不機嫌そうな顔で先に言った。
「さきほど、そこのポーチに、キツネの親子が迷い込んでな……今日は珍客が続く……何用だ?」
 小動物と一括りにして出迎えたクラヴィスに、むっとしながらも、ジュリアスは手にしていた図鑑をクラヴィスに見せた。

「薔薇図鑑……?」
 ジュリアスは、それがどういうものであるかを大まかに説明すると、クラヴィスの名前の付いた黄色い薔薇のページを見せた。
「そなた、この薔薇に見覚えがあるか?」
“おそらくないだろう”と思いつつ、ジュリアスはクラヴィスに尋ねた。自分でさえ、ジュリアスと名前のついたあの白い薔薇の記憶がなかったのだ。いくら見事な薔薇とはいえ、その薔薇を綺麗だと言った時のことなど、クラヴィスが覚えているばすがないと。だが……。
「ああ、これか……」
 とクラヴィスは言った。
「何?」
「カティスの作った薔薇の中でももっとも大きく美しい薔薇だ」
 とクラヴィスは、躊躇なく言ってのけた。
「そなた、どうしてこの薔薇を覚えている?」
「カティスの執務室にあった。綺麗な薔薇だと言ったら、カティスがとても喜んだのだ。誰もが真っ先に、見事な薔薇だ……と言うのだそうだ。綺麗だ、とまず初めに言ったのはお前が最初だと、カティスが喜んだので覚えている」
 ああ、そうだ……とジュリアスは思う。あの薔薇を一輪差しに入れて持ってきた執事はいつもまず、見事でございますね……と言うではないか。私自身も、まずそのように褒め てしまう……綺麗だと言うより先に……。

「何故、そなたは綺麗だと言ったのだ? 見事だと言うより先に……」
「おかしなことを聞く。綺麗だと思ったからそう言ったまでだ。いきなり尋ねて来て、聞きたかったのはそれだけか? キツネの方が、餌を求めてやってきただけに、訪問の意図が判りやすくてまだマシだ……」
 クラヴィスは、ジュリアスにそう言うと、気怠そうにソファに、深々と座り直した。そんなクラヴィスを無視して、ジュリアスは、話を続けた。
「そなた、その大輪の黄色い薔薇の名前、何と言うか、知っているのか?」
「知らぬ」
 クラヴィスは、興味がないとばかりに答えた。

「クラヴィス」
 と、ジュリアスは薔薇の名を言った。
「なんだ?」
 クラヴィスは、ジュリアスを見た。
「クラヴィス、という。その薔薇の名前だ。そなたが一番先に、綺麗だと褒めたので、そなたの名前が付いている、このページをきちんと見よ」
 ジュリアスは、薔薇図鑑を、広げて、クラヴィスの方に向けた。
「ほう……それは、また似つかわしくない名を付けたものだな……」
 と言ってから、クラヴィスは、ハッとした。裏庭に咲く、ジュリアスという名前の白い薔薇……あれは……。あれも、そういう意味で名付けられたのか……と。

「そなたの名のついた薔薇は、カティスが聖地を去る記念にと植えて行ったので、私の館の温室にも咲いている。その薔薇の名が、クラヴィスであると知り、私はずっと疑問に思っていたのだ。先日の茶会に、そなたは、随分と遅れて来たから知らなかっただろうが、偶然マルセルから、薔薇についての記録があると聞き、名前の由来が判るかも知れないとここに来る前に、立ち寄ってきた」
 ジュリアスは、クラヴィスが眺めている薔薇図鑑に軽く触れて言った。

 その指先は、ページを捲る。白い小さな薔薇、ジュリアスと名付けられた薔薇のページ。
「この薔薇……小さい写真が一枚きりなので、よくわからないかも知れないが、そなたの所に、この薔薇があるのではないか?  マルセルの管理している薔薇園には存在しない、この図鑑にも詳しくは記載されていない、ジュリアスという名前の薔薇が……」
 黙って、そのページを見ているクラヴィスに、ジュリアスは言った。
「……ある」
 クラヴィスは、顔をあげて答えた。


薔薇図鑑
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