長い回廊の先に扉がある。特に凝った装飾が施されているわけではないが、入ろうとするものを選ぶような威圧感がある。
アンジェリークは、振り返りディアを見た。
「ここから先はあなた一人でね、アンジェリーク」
そう言われて、アンジェリークの不安は一層募る。
「あの……ディア様は、あの中に一度も?」
「いいえ、何度も入ったことがありますよ。陛下しか入れないわけではないのよ。ただあの部屋には、陛下しか御用がないの、陛下がこの宇宙に接するための部屋ですもの」
ディアの口調は穏やかだった。
「さぁ、いってらっしゃい」
ディアは、そっとアンジェリークの背中を押した。
金の髪の女王候補、アンジェリーク・リモージュが、次代の女王に決まったその日の午後、ディアは、彼女を聖地に召還した。
陛下から、あなたに最後に伝言があります……と。ディアに促され、アンジェリークはその扉の取っ手に手をかけた。冷たい大理石の感触に似合わず扉は静かに、軽やかに開く。
暗い部屋である。天井と壁の境目がはっきりしない。ぼんやりとした灯りが部屋の端あたりの床から数カ所灯っているだけである。まるで部屋の内部は球体のように感じられる。その中央に寝台とも言えるような石造りの台座がひとつだけ置いてある。
上部は布貼りにしてあり座り心地は良さそうだ。そこに、女王陛下が座っていた。
「こちらへ……」
と、声が響く。アンジェリークは、その台座まで行くと、陛下の前に跪こうとした。
「どうぞ、ここに座って」
自分の隣に座るように言われて、アンジェリークは戸惑いながらも言われるままに従った。女王候補として飛空都市に上がってからは、遠目だが定期的に何度か女王に逢う機会はあったアンジェリークだったが、今、側にいる女性は、その時の人物と随分違う印象がある。
「アンジェリーク、次代はあなたになりました。ありがとう。これで、この宇宙は救われます」
そう言われてもアンジェリークには、まだ実感がない。自分が女王になることも、この宇宙が崩壊の危機にあったということも。
「あなたには、お話ししなくてはならないことが、たくさんありますね……」
女王の声は、穏やかで優しげだった。
「……この部屋は、この宇宙と意識を共にできる場、各守護聖のサクリアを宇宙に還元するための場なのよ」
「宇宙と意識を共に……、サクリアを宇宙に還元?……」
アンジェリークの呟きに、女王は小さく頷き、彼女の手を取った。
「あなたにはまだ実感がないのだろうけれど。女王の力は、この宇宙と意識を共にできる事。あなたがこの世界を守りたいと思えば思うほど、強く正しく宇宙は保たれる」
「じゃあ、……私がこんな宇宙どうでもいいと思えば……」
アンジェリークは不安気に尋ねる。
「そう……もしもあなたが本当にそう考えるならば、この宇宙は、そんな風に導かれるでしょうし、憎しみの心でしかこの宇宙を見られなくなったら、ナドラーガ……が誕生する……」
「………」
アンジェリークは無言で俯いた。
「でも、宇宙は、そんな人を女王に選んだりはしないわ。あなたは、その若く、正しい心で、守り通せるはず」
「そのために、宇宙と意識を同化させるための部屋がここ……そんな事が私に出来るのかしら……一体、どうやったら……」
「私が女王になった時、既にこの宇宙は崩壊へと向かっていたの。新宇宙には全てのサクリアがまだ満ちてはおらず、不安定で移行するには早すぎた。私には現宇宙の崩壊を遅らせることしか出来なかったわ。女王になって少し経った頃から、私はこの部屋に入ることが多くなったの。絶えず宇宙と意識を同化していなくては、均衡を守ることが
難しくなっていたの」
「じゃあ……」
「女王になってから、私は、ほとんどこの部屋で眠っていたようなものね。それは普通の眠りとは少し質が違うのだけれど」
「そんな……そんなことに……」
思わず握りしめたアンジェリークの手が微かに震えている。
「あなたは大丈夫よ。準備は整っています。私が残った力の全てで、この宇宙は守るわ、新宇宙に移行すれば、そこでは、絶えず宇宙と意識を同化しなくてはならないなんていう世界じゃないわ。新宇宙とあなたの力だったら、こんな部屋に入ることすら必要ないかも知れない」
「陛下……」
「そんな悲しい目をしないでね。私の犠牲の上にこの宇宙が成り立っていたわけではないのよ。私はそんなに哀れな女王ではなかったわ。眠り続けているその意識の中で、私はこの世界のいろいろなところに行ったのよ。普通では見られないものも沢山見たわ。
むしろ、楽しかったと、今なら言えるわ。貴女もじきに判るはずよ。この宇宙を統べることの尊い素晴らしさが」
女王は軽やかにそう言い切った。
「最後にひとつ言伝をお願いしたいの、クラヴィスに」
「クラヴィス様……に?」
「ありがとう、いつも側にいてくれて……と」
そう言われてアンジェリークは内心、それを疑問に思った。ほとんどこの部屋にいらっしゃったのなら、クラヴィス様もいつも側にいらしたことになってしまうけれど?……と。 彼女の心に、昨夜見た夢の事が、ふと思い出された。そんなアンジェリークの疑問に答えるように女王は言った。
「側に、というのは気持ちの上での事よ。この宇宙が崩壊に向かう時、多くの星が消えて行ったわ。本当なら知的生命体にまで進化するはずの生き物も、育たなかった。 小さな沢山の命が消えて行ったの。これらの事象を、クラヴィスは誰よりもよく知っていた。悲しみ、憎しみ、怖れ、そして死……それらの感情を
、彼は誰よりも深く感じることができる人だった。この宇宙の悲哀を私と分かち合ってくれていたの、ずっと……ずっと。それは元より闇の守護聖に課せられた宿命のようなものであるけれど、この時期に於いては、過去のどの闇の守護聖よりも負担は大きかったはず……」
先ほどまでの声とは違い、女王は辛そうにそう言った。
「で、でも、だったら、直接、陛下から言われた方が」
遠慮しがちにアンジェリークはそう言った。
「いいえ。貴女に伝えて欲しいの。私たちは、もう随分前から……そうね、判りやすく言えば、同志なのよ。この宇宙と意識を共にする。貴女の心の中にあるような、恋や愛とは違う所に、私たちはいるの
よ」
そう言われて、アンジェリークの胸が疼いた。その微妙な表情を女王は読み取る。
「ほら……その胸の痛みを私はもう感じない。クラヴィスもそうよ、私に対しては……ね」
アンジェリークの手を取ると、女王はその顔を覗き込んで言った。悪戯っぽく笑う顔が、アンジェリークの目の前にあった。
「陛下……」
「さぁ、私といっしょに宇宙を感じましょう。貴女に全て伝えるわ、私たちの世界を守るための術を」
女王はアンジェリークを抱きしめた。
「あ……何も見えない!」
ふいに足下の床が消えて無くなり、目前のもの一切が消えた……そんな感覚にアンジェリークは思わず叫び声をあげた。
「大丈夫、まかせて。そして、静かに目を閉じて。感じられるでしょう、貴女なら。そのまま心を解放して。すぐに自覚できるでしょう……新しい女王であることを…………」
意識が遠くなると思ったその刹那、アンジェリークは、既に感じていた。
宇宙を。とてつもなく広いはずの其処が、自分の掌の中に圧縮されていくように……。
限界まで小さく熱くなったそれが一気にスパークして拡がっていく。
私の心の中は、宇宙に繋がっているのね……とアンジェリークは思う。
けれどそれと同じ重さで存在する、胸の奥にあるクラヴィスへの想いは、目覚めた時どうなっているんだろう……と思いながら、彼女の意識は宇宙を漂い始めた。
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