scene:2 【秘密の場所】
 
 静かな午後。クラヴィスの執務室に訪問者があった。パスハである。
「何だ?」
 物憂げに尋ねるクラヴィスに、パスハは、やや緊張した面持ちで話し出した。

「女王候補の一人が戻りません」
「またか……」
 溜息……というよりは、軽い笑いと共にクラヴィスはそう言った。
「はい。規定時間をやや超えた程度ですが、先の事もありますし、念の為……と思いまして」

 先の事……アンジェリークの精神体は、育成する大陸を視察していた途中に、導きを失った迷い子に呼ばれて辿り着いた空間から、戻れなくなってしまったことがある。
 クラヴィスの水晶球によってその位置が特定され、 首座の守護聖たちの導きで事なきを得たのだが、一歩間違えれば、長時間、肉体を離れてしまった精神体は、戻り場所を見失ってしまうことに……。

「これまでの傾向を見ますと、彼女は、特に、週末に精神体離脱時間が長くなる傾向があります。もしや、肉体的な疲れと何か因果関係があるのではないかと」
「気分でも悪くなっているのではないか? ということか……ジュリアスは、何と言っている?」
「ジュリアス様は、聖地にお戻りになっていて不在です」
「で、私の所に来たのか……」
 クラヴィスは、水晶球を手にすると、仕方がないとばかりに立ち上がった。

 パスハが、クラヴィスと共に王立研究院に戻ると、大陸へと続く転移装置の上に横たわっているアンジェリークの肉体があった。
「やはりまだ、戻ってはいないようです」
「少し、離れていよ」
 クラヴィスは、水晶球をアンジェリークの横に置くと、傅き、手を翳した。

「…………大丈夫のようだ。女王候補の気は、まったく乱れていない。自分の意志で、留まっているだけだろう」
 ややあってクラヴィスは、そう言うと静かに立ち上がった。
「しかし……これ以上の精神体離脱はよくありません」
 戸惑った表情でパスハは呟いた。
「そうだな……では、遊星盤の用意を」
「御自ら、出向かれるおつもりですか?」
「女王候補は、自分が大陸に長居をしている意識がないようだ、誰かが呼びに行かねばなるまい」
「まるで帰宅時間を忘れて遊び回っている子ども……のようなものだと?」
 パスハは、思わず眉間に皺を寄せる。
「そういうところだ。呼びかけてみたが答えぬ。よほど興味のあるものを観察しているとか、居心地の良い場所にいるのだろう。転移装置を、女王候補が降り立った位置の近くへ。後は、水晶球の導きに任せる……」
「かしこまりました」

 クラヴィスは、アンジェリークの意識を追って、エリューシオンの中央を縦に貫く山脈、もっとも高い山の麓に広がる森林地帯の一角に辿り着いた。

“この辺りも随分、落ち着いてきたのだな……少し前までは溶岩の溢れる場所さえもあり、こんな鬱蒼とした緑はなかったのだが。ん?……彼処か……”
 生い茂る木々の合間に、キラリと光る湖面が見える。やや離れた所、木々の合間に小さくぽっかりと穴が空いたような場所があった。
 アンジェリークの気配と遊星盤の発するシグナルは、間違いなくそこから出ている。クラヴィスはそっと近づいた。

 柔らかな日が差し込んでいる森の日だまり。 小さな生き物にとってもそこは憩いの場所であるらしく、木々の小枝に、青や緑、黄の羽根を持つ鳥たちが、留まっている。その愛らしい風景に、クラヴィスでさえ思わず、目を細めた。 そして、彼の精神体は、ゆっくりと地上に降りた。
 アンジェリークは、木漏れ日の中で、朽ちて倒れた木をベンチ代わりにして座っていた。彼女は、足下で木の実を集めてているリスに向かって何かを話しかけている。 もちろんそれは彼女の精神体であり実態ではないのだが、無垢な生き物には、彼女の気配が判るらしい。時折、小首を傾げるようにしてアンジェリークの方を、チラリと見 る。やがてリスが行ってしまうと、彼女は顔を上げ、枝に留まっている鳥に向かって話しだす。

「……そう思わない? カナリアさんなら、どう思う?」

“あれが、カナリアか……”
 とクラヴィスもまた、鳥に目を移した。カナリアたちはアンジェリークの問いかけにまるで返事をするかのように、チッチッと鳴いた。

「そうよね。やっぱりそうよね。だからね、まあ良かったのよ。でも、やっぱり、ちょっとねぇ……って気持ちもあるけど」

 アンジェリークは、また話し出す。クラヴィスにとっては 何の事かわからないその呟きを、さっさと止めさせて飛空都市に戻るよう警告せねば、と思ったその瞬間……。

「クラヴィス様ったら!」
 ふいに自分の名を呼ばれたクラヴィスは、『何をしている。早く戻らぬか』という言葉を飲み込んでしまった。

「いつになったら、名前で呼んで下さるんだろう……ロザリアの事は、ロザリア……って仰ってるのを聞いたことあるわ。アンジェリークって呼びにくいのかなぁ。金の髪の女王候補……の方が、字数は多いじゃないのよ う!」
 ふいに大きくなった彼女の声が、カナリアたちに届いているはずはないのだが、その気配を感じ取ったのか、鳥たち驚いたように飛び立っていく。 

「でも、この頃は、だいぶ微笑んで下さるようになったと思うんだけどな。恐いお顔は見なくなったもの。今度の日の曜日、ご一緒したいんだけどなあ、前にお誘いした時、“どうして私がお前と日の曜日を過ごさねばならぬのだ? 時間を無駄に使うな”って言われちゃったのよ……もう、すっごぉーい、傷ついちゃった。そりゃあ、 あの時は私も大陸の育成がまだまだだったし、今から思えば、それは、もっと時間を有効に使うべきだっていうお考えがあっての事かしら、って思えるけれど。ロザリアは、クラヴィス様とご一緒したことあるんだって。お願いしたら、“わかった……”って仰って、庭園で過ごしたって……“結構、楽しく、お話しして下さったわ、それにとても優しいお声をしてらしてよ”だって! あーーん、いいなあ……」

 アンジェリークの独り言は延々と続いている。クラヴィスは、完全に声をかけるタイミングを逃してしまい、その場に留まった。
 
「さあっ、今週の反省は、お終いっ。来週、ここに来る時は、愚痴じゃなくて、楽しいことばっかり報告出来るように頑張らなくちゃ。打倒、クラヴィス様! なぁんてね」
 アンジェリークは、元気よく立ち上がると、大きく深呼吸した。その様子を見たクラヴィスは、彼女より先に、木陰から離れて、還るべき肉体へのゲートを開いた。
 

◆◇◆

 アンジェリークの隣に横たわっていた、クラヴィスの瞳がゆっくりと開いた。
「お帰りなさいませ」
 それに気づいたパスハが声をかけ、起きあがろうとしたクラヴィスに手を差し伸べた。
「大丈夫だ。すぐに女王候補は戻るだろう。やはり少し長居をしていただけのことだ」
「お手を煩わせました。注意するように言っておきます」
「ああ。だが……週末の精神体離脱が長めになるのは、多目に見てやるといい。いろいろと気持ちに整理をつける時間が必要なようだ。それと、私が迎えに行ったことは伏せておくように。結局、私は何もしなかった から……」

 クラヴィスは言うだけ言うと、早々にその場を引き上げた。転移装置のある部屋を出ようとしたその時に、クラヴィスの背後で、アンジェリークの声が聞こえた。まるで、寝起きの時にあげるような微かな呻き……。
“フッ……” と、クラヴィスは、微笑まずにはいられなかった。
 

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