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      リチャ兄ちゃん、リチャ兄ちゃん、リチャ兄ちゃん……リチャ…………
 「……リチャード! おいっ、コラ、おっさん、聞いてンのかーっ」
 今となっては、ちっとも可愛くないチャーリーの声が、ザッハトルテの真横で響いた。
 「あ? え? はい、はい。すみません、少し考え事を……」「なんや……えらい急に黙りこくってしもて……。そんなに転職の事で悩んでるのんか?」
 さすがのチャーリーの声が低い。昔の事を思い出していた……とはあえて言わず、ザッハトルテは頷いた。
 「仕事内容はなかなか魅力的なものでした。加えて、タイミング的には丁度良いかも知れない……と思っています。実は前にも良い話がありました。退職願を明日にでも渡そうかと思っていた矢先、先代が倒れられたのです。恐らく、先代は私の心が他社に動いているのをご存じだったのでしょう。死に際に、『もうちょっとだけチャーリーの側にいたってくれへんか』と頼まれました。私は結局、ウォンに残りました。そして現在に至りますが、貴方が継いでからもう随分経ちましたし、側にはジュリアスというしっかりした人が付いててくれていますから……。それで、まあ、少し考えてみてもいいだろう……と思ったのです」
 
      「いや、待ってぇや。そら、ジュリアス様は心強いブレーンやで。けど、ジュリアス様は、俺なんかの秘書をいつまでもやってる人やないと思うんや。いつかもっとジュリアス様らしい仕事にお就きになると思うんや」ジュリアスが出張で一日留守にするのでも、寂しいからいやだ……と難色を示すチャーリーから出た言葉とは思えず、「ほお」と言ってザッハトルテは、チャーリーの言葉の続きを待った。
 「そうなった時、俺、きっと親父が死んだ時みたいに立ち直るまでグダグダすると思うねん。そやからお前がいて、俺の代行してくれんとアカンやん」
 「私は押さえですか?」
 「うん」
 見事なまでにチャーリーは、間髪入れず即答した。
 「あ、でもそうは言うてもやな。ジュリアス様と仕事で離ればなれになることはあっても、私生活では一緒やで。なんせ俺ら愛し合ってるから!」
 また一人勝手な思い込みを……と呆れつつも、「それならなんで、立ち直れずグタグタする必要があるんです?」とザッハトルテは聞いた。
 「そんな……夜だけやのぅて、昼も逢いたいやん。どや? このメロメロぶり」
 臆面もなく言い放つチャーリー。けれども、本当にジュリアスと愛し合っているのならば、確かにこのメロメロぶりは判らないでもない……とザッハトルテは思う。なにしろ十歳の時からの憧れの人なのだから……。ザッハトルテはジュリアスをチラリと見た。いつもチャーリーにデレデレされながらも軽く
      かわしている姿は、単に大人な対応だけとは言いきれないものがあ
      る……とは思うものの……、と。
 「…………ジュリアス、チャーリーは貴方と愛し合っていると常にしつこいほど言ってますが、野放しにすると危ないですよ。妄想と現実の区別が付かず、ストーカーになるかも知れません」
 ジュリアスが答える前に、チャーリーの声が飛ぶ。
 「誰がストーカーやねんッ。第一、一緒のトコに住んでるんやから後をつけ回す必要もないわいっ。それにジュリアス様と俺が愛し合ってるのは妄想とちゃうわッ。郵便ポストが赤いのと同じくらいのまごうことなき真実や!」
 仁王立ちになっていうチャーリーにザッハトルテは肩を竦め、ジュリアスに向かって、「一応、聞きますが、本当に?」と尋ねた。
 「……………………………………………………………………………………はい」
 もの凄い間があってから、ジュリアスはそう答えた。
 「その間はなんなんですぅぅ〜」
 「遊び……では?」
 「い、いえ……」
 「いや、いくら弄んでくださっても結構ですが」
 「いえ、本当に」
 「奇特な方だ……」
 「ええ。けれども……たぶん、貴方ならお判りになるでしょう、私が彼に惹かれた理由が」
 ジュリアスは静かにそう言って微笑んだ。
 「聞いたかー、ザッハトルテッ! 俺の側で長年、俺の素晴らしさをシミジミと噛み締めたお前やったら判るやろ!」
 仁王立ちの上に腰に手をあてて、無敵のポーズのチャーリー。
 「はぁ、今では噛み締め尽くして、何の味もしませんがね。……それにしても……ジュリアス、奇特な方だ……」
 「ええ……」
 ジュリアスとザッハトルテはお互い、何故だが深く頷きあった。妙に生暖かい、まったりとした雰囲気がしばし流れた後、チャーリーが思い出したように言った。
 
 「いやや、いややで。お前、余所の会社に行ったらアカンで」と。
 ザッハトルテは「ふっ」と笑い「貴方にそうやって引き留められるのは二度目ですね」と答えた。
 一度目は何時だったかすぐに思い出したチャーリーは、目の下をヒクヒクとさせながら、「あ、あの時は、ワザとや。お前がいてると宿題も手伝って貰えるしな。たいていのことは、電子辞書引くより、お前に聞けば事足りたし。
      俺の計算づくの芝居やったんや。お前は子どもながらに抜群の演技力の俺の涙にコロッと騙されたんや。ああ、恐るべし、幼少の頃の俺! チャーリー、恐ろしい子! ガクガクブルブル」
 大袈裟な身振りで自身の腕で体を掴むとわざとらしく震えるチャーリー。
 「ああ、そうでしたか、いやあ、すっかり騙されましたよ。鼻水までダラダラと垂れて、迫真の演技でした。今でも耳にこびり付いています。『リチャ兄ちゃゃん、僕の側にいてて〜』と縋って泣いた貴方の声が」
 棒読みでザッハトルテがそう言う。二代目ウォンは、初日からの大暴露も、物判りの良いようにチャーリーを諭したのも計算づくのことだったのだろうと思う。商談でも押して、引き、情に訴える駆け引きの上手さによく呆れたものだ。だが、チャーリーの方は演技などではなかったことは明白だった。これ以上、ツッコまれるとヤバイ……と思ったチャーリーはこの話を打ち切るように、「さ、も一杯、コーヒー飲も……ジュリアスの分も淹れますネ」と何事もなかったかのように立ち上がった。
 「私にも」
 空になったカップをザッハトルテは差し出す。
 「自分で淹れろや、ゴラァ」
 と言いつつもそのカップにおかわりを追加するチャーリーである。
 
 「余所には行きませんよ。行ってしまえば、もうこのコーヒーを飲めなくなりますからね」
 ザッハトルテはクスッと笑いそう言った。
 「フン……」
 チャーリーも鼻を鳴らした後、ニッコリと笑った。そして、おもむろに引き出しを開けて、平たい紙箱を取り出した。
 「リチャード、プレゼントがあるねん。お前にはいろいろと世話になってるし。これあげるわ」と些か勿体ぶって差し出した。
 「それは……ありがとうございます」
 こんな話の後である。彼は感動しつつ受け取った。
 「開けさせていただきますよ」
 笑顔を見せたのも束の間、ザッハトルテの眉間に筋がギュギュッと寄った。
 「これは……」
 「あの経団連のエライさんなあ、そんなに気に入ったのならと二本目のネクタイくれよってん。新作らしい……。お前にあ・げ・る!」
 「底にカードが入っていますよ。今度の会食の時に締めている姿を見せて欲しいと、書かれています。貴方に締めて欲しい、と!」
 「いややー、こんな派手な色合いのケッタイな柄、有り得へんやろ〜。クールシックな俺のキャラには合わん〜」
 「どこがクールシックなんですかっ。とにかく要りません」
 その時、ネクタイを押しつけ合う二人の横でジュリアスが「綺麗ではないか、それほど嫌がることもあるまい」とサラッと呟いた。
 「え゛?」
 固まる二人。
 
 「この文様はシータ域第七惑星アナナスタルトを支配していたプロフィットロールという古代王家が使っていた寿紋だ。加えて、この色合いだが、かつてアナナスタルトでは守護聖が輩出されたことがあるのだ。黄色と青の配色は……光の守護聖になった者に多く使われる色合いであるから、それを意識したものであろう。このネクタイをデザインした者は、そうした古典的な芸術や歴史的背景に造詣の深い人物と思われる」
 ジュリアスがそういうとザッハトルテとチャーリーは目を見開いた。
 「そんな深い意味があったんですか……」
 「ただのハデハデサイケなんと違ったんや……」
 チャーリーはジュリアスに躙り寄りそのネクタイを襟元に当ててみた。
 「……に、似合う……ジュリアス様がするとコレはコレでアリや……という気がする」
 「え……ええ。黄と青が髪と目の色に合って不自然さがありませんね」
 「ホンマや。このネクタイの強烈な色柄が、ジュリアス様の個性の前にひれ伏しとるようや……」
 「まったくです。ということでジュリアスに貰っていただきましょう。おっと、もう休憩時間がとっくに過ぎている……私は、自分の部屋に戻ります」
 都合良くネクタイをジュリアスに押しつけることに成功したザッハトルテは、そそくさと立ち上がった。
 「チャーリー、コーヒーをごちそうさま。お陰様で、引き抜きの件をキッパリと断る決断が出来ました。感謝します」
 彼が改めてそう言ったのが気恥ずかしかったのかチャーリーは、「もう用はないわぃ、俺とジュリアス様を早よ二人きりにさせてんかー」とシッシッと追い払う。
 「はいはい、退散しますよ。……ああ、そうだ。ジュリアス。貴方にお渡ししたいものがあるんですよ。先日、書架を買い換えようと思って蔵書の整理をしていて見つけたんですが……」
 ジュリアスに向かってそう声をかけたザッハトルテに、チャーリーが反応する。
 「え? 何々? アイドルやった頃の大女優のお宝写真集とか? 俺にも見せてや〜」
 「そんなものではありません。でも、お宝はお宝かも知れませんね。今をときめく若き実業家、ウォン財閥総帥チャーリー・ウォンの初等科三年の時の作文集です」
 ゴンッと前のめりに机に頭を打ち付けたチャーリーは、「あたた……」と呻きつつ、声を張り上げた。
 「なんでお前がそんなもん持ってんのやーー」
 「先代から戴きました。将来、チャーリーがエラソーな事言うてお前を困らせたら、これ見せてハズカシメたれ……と仰いまして」
 「あんの、クソ親父〜〜」
 ザッハトルテはジュリアスの側にツツツ……と寄り、小声で言い「明日、お持ちしますから、これからは貴方がチャーリーをはずかしめるのに使って下さい」と言った。
 「十五年ほども前のことなんか何を書いたか覚えてないけど、所詮、子どもの作文や。可愛いもんや。ハズカシイことなんかあるかぃっ」
 チャーリーがそう叫んだが、ザッハトルテは、不敵な笑いを浮かべたまま去っていった。
 そして翌日、その作文集はジュリアスにマル秘封筒に入れて手渡されたのだった。
 
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