二人が出て行ったそのすぐ後、ジュリアスのデスクの上の社内フォンが鳴りだした。ハッと我に返ったチャーリーは、少し考えて受信スイッチを押し受話器を取った。
「あー、もしもし、今……」
ジュリアスはいないのだと言おうとするより早く、焦っているような早口で相手が喋り出す。
「ハーイ、ジュリアス。クリスティーヌよ。今日って、社長、広報部のランチミーティングなんでしょう? だったらお昼ご一緒しない? 良いお店があるの!」
お色気たっぷりな声が響いてくる。
「あー、えーと、ジュリアス・サマーさんは席を外されていますよ……」
チャーリーは自分の鼻を摘んで声を変えそう言った。
「あっ、あら、そうなの、それは失礼……」
ツーツーツー……通信の切れた音ともに、チャーリーは「ふんっ」と鼻息荒くした。
「クリスティーヌ……って……確かミス主星にもなったことのあるナイスパティの受付嬢……。ジュリアス様に接近してたんか……」
そしてまた社内フォンが鳴る。ブツブツと文句を言いながら、チャーリーは、ジュリアスの机の前に座わり、今度は無言で受話器を取った。
「ジュリアス。あ……翻訳部のレイモンドだよ。ランチでも一緒にどうか……と思って。今日、社長がランチミーティングだから……一人じゃないかな……と思って……」
ピキッ……とチャーリーのこめかみがキレる。美少年がそのまま大人になったようなほっそりとしたレイモンドの風情が目に浮かぶ。チャーリーは小さくコホッ……と咳をした後、グッと腹に力を込め、心の中で“エエ声〜”と呟いた後、とっておきの声を出す。
「すまない、レイモンド。今日は先約があるのだ」
「ああ〜ジュリアスぅぅ〜、今日も素敵な声だね……。先約があったのか……なら仕方ない……また今度……。来週はどう? 確か社長は人事部とランチミーティングが入ってたはず……」
“なんで俺のランチスケジュールが、来週の分までバレバレやねん?”
「……いや、来週も再来週もその次も……ランチミーティングには私も同席せねばならなくなったのだ。私はチャー……社長と常に共にあらねばならぬ身なのだ」
「ええっ、なんだって! 本当かい? ざ……残念だよ……」
「では、レイモンド、さらばだ!」
ツーツーツー……。
“うひひ、上手いこといったわ。俺、結構、ジュリアス様のマネ、上手いやん。しかし、レイモンドまでジュリアス様に気があったとは、知らんかった……。合コンの誘いどころと違うがな。こうピンポイントで来られてはブロックでけへん!”
その時、また社内フォンが鳴る。
「えーーっ、またーー」
と叫びつつ、ジュリアスはスイッチを押し、「ただ今、ジュリアス・サマーは席を外しております。ピーと鳴りましたらメッセージをお願い致します。……ピー」
アホらし……と思いつつ、わざと機械的な声色でチャーリーはそう言った。
「あ、ジュリアス、留守だったのかい? あたし……食堂のオンディーヌだよ。えーっとね、今日のランチメニューは、グラタンなんだけど、あんた、グラタンはあんまり好みじゃないだろう? まかないのフィレステーキで良かったら、別メニューにしたげるからネ。じゃあ、またネ」
ツーツーツー。
「…………なんで、今日のランチがグラタンやのに、まかない食がフィレステーキなんや?! くそぉぉ、食堂のオバチャンまでジュリアス様に! しかも、グラタンが苦手やて、キッチリとリサーチしとるやないかーっ。それより衝撃なんは、あのオバチャン
が、オンディーヌなんていう美女系の名前やったとは……」
“ちょっと前まで皆、ジュリアス様の事、憬れの目で遠巻きに見てたのに……こうもヌケヌケとアタックしてたとは、不覚にも気ィつかんかった……。確かにジュリアス様、誰にでも親切やし、ニコッと微笑みかけはるからなあ、あれで勘違いするんや。あのジュリアスの微笑みは、王族とかがパレードとかの時に、手を振りながら愛想してるのと同じやと判らんかー? 俺に微笑みかけはる時との圧倒的な差が判らんとは、目出度いヤツらめ……ん……?”
チャーリーがふと机の上に目をやる。透明のマットの下に、カレンダーや、取り急ぎの用件などが書かれたメモ類が、キッチリと挟み込まれている。つい先ほどのスタッフミーティングで決定された事項も記してあり、それに伴ってしなくてはならない事や用意しなくてはならない書類、取るべき連絡相手の名前などが、走り書きされていた。
「これ、後で俺が、しやなアカン……と思ってたことや……。俺が言うまでもなく全部わかったはるんや……クスン、さすがや。ありがと、ジュリアス様……」
と涙ぐまんばかりのチャーリーの視野に、その隣にあるメモ書きが目に入る。他の部署からの電話を受けた際の走り書きのようだった。明日の会議9時半変更9時50分/今期決算書類、チャーリーサイン漏れ……そういった文字の合間に、ペンの出を確かめるためのグルグルとした線や、矢印など電話で話している際の無意識のうちの落書きが描かれている。その中にチャーリーは、見過ごすことのできないものを発見した。『ローズ・エクレア』と女性名が書かれた後にどう見てもハートマークが二つ、小さく描かれていたのだ。
「だ……誰っ。ローズ・エクレア〜って!! なんで最後にハートマークが……?!」
顔に青い線が入っていくチャーリー。と、その時、チャーリー自身のデスクフォンがけたたましく鳴り響いた。動揺する心のままチャーリーはそれに出る。
「しゃちょーーーー! ランチミーティング、もう始まってまっせー! ご飯冷めてしまうがな。皆、待ってるのに早よ、来たってくださいよー、もう。時は金なり、遅いことは牛でもしまっせー!」
ガチャン、ツーツーツー。
チャーリー以上の強い訛りの主は、先代からいる最古参の人事部長だった。
「たははは……、アイツの訛り、あんまりや。俺も気を付けやなアカン。あんなにコテコテになってしもたら見苦しい……」
回りからみればどっこいどっこいなのだが、そう反省するチャーリーであった。心に大きな気掛かりを残しつつチャーリーは、ランチミーティングの席に向かう。そこでも、チャーリーは、ジュリアスが同席しなかったことについて女子社員からいきなりブーイングを受け、誰それがジュリアスに思いを寄せているだのという話題をたっぷりと聞かされた上、妙齢の娘のいる年配者からは、ぜひウチの娘を紹介させて欲しい……と迫られ、まさに傷口に塩を塗られるが如くのランチミーティングだった。
その日、館に帰宅し、人目が無くなるとすぐにチャーリーはジュリアスに詰め寄った。会社でそうしなかったのは、午後から会議や打ち合わせで、ジュリアスと二人きりになれなかったからだ。
「な、何なのだ、一体?」
突然、チャーリーに、ネクタイを引っ張らんばかりにしてソファに座らされたジュリアス。チャーリーは、昼間、社内フォンを受話してしまったことを白状し、女子社員から仕入れた噂話の真意をジュリアスに迫る。ジュリアスは「ああ、そのことか」と笑う。
「笑い事やありませんよッ。マルジョレーヌさんやフィリップの事で面白くないって言わはったけど、俺なんかたった二人だけ! それやのにジュリアス様ときたら、知らん間に社内でモテモテやないですかっ! 今月になってもう三人からコクられたって本当ですかッ?」
「コクられた……とは何のことだ?」
「好きや……付き合ってくださいって告白されたって事です!」
「ああ……それならば……まあ、確かに三人ほど申し出があった」
「まさか、善処しよう、とか、それは喜ばしいことだ……とか言わはったんと違うでしょうね?」
「……いや……とりあえずは、気持ちは有り難いと思うが今は仕事で手いっぱいなので……とお断りした」
ダーッとチャーリーはその場に倒れ込む。
「もうっ。そんな言い方したら、仕事が落ち着いたら可能性がある……っとことやと思うやないですか〜、それやから、女子社員が『決まった人はまだいないらしいわ』とウキウキしてたんやー。それから、翻訳部のレイモンドッ。彼だけは侮れん!」
「レイモンド? あのにこやかな青年の事だな。翻訳部の仕事を手伝うことが多いが、彼にはとても世話になっている。物腰も丁寧で所作も美しい、実に良い青年だ」
「下心有りです! 気を付けてください」
チャーリーは、三白眼になっている。
「それから、ジュリアス様ッ。ローズ・エクレア、この名前に覚えは?」
チャーリーは、いよいよ核心に迫る。その名を口にしたとたん、ジュリアスの口端がほころんだ。
「ああ……ローズエクレア……」
そう呟いたジュリアスの声は甘く溜息混じりだ。
「誰ですぅぅぅ〜」
もはや涙目のチャーリーである。
「私の愛しい栗毛……濡れたような瞳、優しい嘶き……もう判ったと思うが、フィリップの乗馬クラブで私専用になった牝馬のことだ」
「う……馬……」
「そう、馬だ。フィリップがこの馬のプロフィール写真を利用して待ち受け画像を作ってくれたのだ」
ジュリアスは手元の携帯電話を開けてチャーリーに見せる。先日までそこにあったのは、ディフォルト画像のなんということはない風景写真だったのに。
また結局、馬や……と思いつつ、とりあえずは安堵するチャーリーをジュリアスは笑う。
「私のことがそんなに心配なのか?」
「心配ですよ。誰がどう見てもジュリアス様、素敵やし」
「今の私にとって、人間関係を築いていくのは一番大切なことではないか……と思っている。だが恋愛関係を持つつもりも、育むつもりもない。そなたが側にいる今は。誰がどのように私に……その……コクろうとも、そなたは何ひとつ心配せずともよい」
「ジュリアス様……」
「チャーリー……」
パパカパーン・パン・パンパパーン……とチャーリーの中が、勝利ファンファーレが鳴り響く。
“エエ雰囲気やー、このまま一気に持ち込みたい、あんなことやこんなことに……。そやけど、腹が空いてはなんとやら……房事は食事の後とか、まだ明るいとか、なんとか言われるに決まってる……そやけど、キスくらいは……”
目を閉じて唇を尖らせるチャーリーだが、その時、無情にも執事の「ジュリアス様、チャーリー様、お食事の用意が調いました」という声が響いてくる。
「エエとこでお約束のように邪魔が入るのも俺らがラブラブな証拠や!」
さっきまで顔を引き攣らせていたのが嘘のように上機嫌のチャーリーは、邪魔が入っても余裕である。
“俺とジュリアス様は、もはやカラダなんかどうでもエエほどに、海洋深層水みたいに、ものすごーー深っかーいトコで、清らかーに育まれた関係なんや”
自分自身にそう納得させつつも、どうやって、食事の後、この平日の夜にジュリアスとあんなことこんなことに持ち込むかの作戦を練らずにはいられないチャーリーだった。
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