「どうしよ……かな」
と呟いてチャーリーは、ジュリアスの部屋の前に立っている。ピッチリ締まった扉のごく僅かな隙間から微かに灯りが感じられる。
「やっぱり……まだ起きて書斎にいてはる」
チャーリーはジュリアスのコーヒーを淹れるために、いそいそとキッチンへ向かった。
あれから帰宅した二人は、ゆっくりと食事をし、少しニュース番組を見た。その後、ジュリアスだけが私室へと入ったのだった。まだ少しだけ昨夜の事を気にはしていたようだが、チャーリーと視線を合わさないことはなかったし、いつものように会話もしていた。ジュリアスがいつもの週末よりも早めに私室に入ったのは、仕事を持ち帰っているからだった。時刻は十一時過ぎ。
彼が私室に入ってから一時間と少しになる。
「ホンマ、翻訳部の人手不足、なんとかせなアカンわ。ジュリアス様は、俺のスタッフやのに……。ジュリアス様も締め切りなんか律儀に守らんでも二、三日くらい遅れたかってええのに。いつもの週末やったら、ワインでも飲みながら、長めの映画でも楽しんでるとこやのに」
ブツブツと言いながら、カフェイン少なめの二人分のコーヒーを、チャーリーは用意する。コンコンと控えめに扉を叩き、静かに開け、その隙間から顔だけ覗かせると、机の前に座っていたジュリアスが顔を挙げた。
「まだ仕事、続けはります? もし良かったら……」
コーヒーでも、と言うよりも先にジュリアスは笑顔を見せ、「ありがとう。丁度欲しいと思っていたところだ」と言った。チャーリーの淹れたコーヒーの香りが扉を開けた瞬間に届いていたのだ。チャーリーはジュリアスの前にカップを置き、自分は立ったままコーヒーを飲み始めた。
「……昨夜は本当にすまなかった」
コーヒーを一口飲んだ後、ジュリアスはチャーリーを見上げて言った。
「もうええんですって」
「さっき……」
「はい?」
「エエ加減にしいや、しばき倒す……」
とジュリアスは、妙な発音で言いにくそうに言った後、笑った。
「あの時のそなた、なかなか格好が良かったな」
「いややなあ、もう……」
「そなたがそう言ってくれなかったら、まだ社に居たかも知れないな」
情けないような表情をしてジュリアスが言う。
“へぇ……ジュリアス様でもこんな顔しはるんや……”と思ったとたん、チャーリーの胸がキュン……となる。
「お、俺かて言うときは言うんですよっ」
照れながらマグカップに顔を埋めんばかりにして、チャーリーはコーヒーを飲む。
「そなたにあのような事をしたという事実もそうだが、私自身が、過去の独裁者の怨念……のようなものに影響されたこともショックだった」
ジュリアスはしみじみと言った。
「もう光の守護聖とちゃうんやなー、って改めて思わはったんでしょ?」
「ああ。聖地を離れてもどうということもなく、自身も変わったとも思わず、主星での生活にも馴染んだつもりだった。だから、今更、そんなことを考える自分に腹立たしいものがある。そなたの言うように、ウダウダと考え込んでしまった自分が情けなくて。みっともない姿をそなたに見せてしまったのが恥ずかしい」
ジュリアスの言葉にチャーリーは「う〜ん」と唸った後、首を傾げながら、こう言った。「ジュリアス様、俺ね、子どもの頃からものすごーージュリアス様に憧れてます。潔癖さや高貴さや、そりゃもう我が神……ですけどね。そやから言うて、俺の前で常にそうあらねば……とか考えてはるのと違うでしょうね? 悩んでウジウジしたりとか、歯に挟まった物をシーハーシーハーしたりとか、滑って転んでお尻打ったりとか、パンツイッチョでウロウロしたりとか、たとえそんなジュリアス様を見たとしても俺、幻滅どころか、もっともっとジュリアス様を好きになれると思うんですけども」
その例えはふざけているが、チャーリーは真剣に言っている。
「それを聞いて安心した」
ジュリアスの苦笑は、チャーリーを良い気分にさせていく。
「いや……実際、見てみたいですわ……パンイチでウロウロしてるジュリアス様、ものすごー見たいなあ」
「その……褥を共にする時に……見たことが……」
二人きりなのに何故か小声になるジュリアス。
「いや。そういう時のパンイチではなくてですねー。会社から帰った後とか、玄関入るなりパーッとスーツ脱いで、「暑っついな〜、今日も」とか言いながら、ビールをブハーッと飲んでですよ、で、そのままの姿でウロウロしてソファでテレビを見る……というオヤジな……。いや、実際これウチの死んだ親父の事ですけどもね。ジュリアス様も俺との間ではアリかな……と」
「…………」
どう返事したものかと沈黙しているジュリアスの横でチャーリーが笑いながら、「ジュリアス様にとっては罰ゲームですねえ……いや、そやけど、俺にとっても罰ゲームかも知れへん。ジュリアス様にそんな姿でウロウロされたらかなりヤバイやろ……俺」と言った。
「そなたと話していると、一体、何の事について話していたか判らなくなる。真剣な話が、随分と逸れてしまった……」
「確か、俺がピシッと言うたんが、格好いいので、『チャーリー、惚れ直したぞ』と思って愛の再確認をしたという話でしょ?」
肩を竦めて、ウィンクしチャーリーは言う。ジュリアスは、クックッと笑った。そして、「チャーリー、ありがとう」と様々な思いを込めて言った。チャーリーにもそれは充分に伝わったようである。
「いえいえ、どういたしまして。ほな、仕事の続き、頑張って。そやけどあんまし無理しはったらあきませんよ」
チャーリーが扉を開け、部屋から出て行こうとする間際、ジュリアスは彼を呼び止めた。空になったカップを持って。
「美味しかった」
ジュリアスは、チャーリーの持っていたトレイにカップを置く。“じゃ、ご褒美でも貰いましょか?”と言って、おやすみのキスをねだってやろうとチャーリーが、
言葉を発しようと思ったその瞬間、ジュリアスの顔が近づく。その唇が、頬に一度、唇に一度、軽く触れた。
「おやすみ、チャーリー」
微笑みと共に言ったジュリアスの声は……。
“甘! 昨夜の絶対零度みたいなキスの後だけに、ものすごー甘! それにジュリアス様からお休みのキスなんて初めてちゃうっ? アカン……今のキスで腰砕けた……マジで……せっかくマシになったのに
〜”
と思いながら、「はいぃ〜、おやすみぃ〜なさいぃぃ〜」とほんわかとした口調で言って、扉を閉めるのがやっとのチャーリーだった。
チャーリーの去った書斎では、ジュリアスもまた気恥ずかしさの余り俯いていた。口端が緩み、にやけていると自分でも思う。誰にも、自分自身でも見たくないような表情をしているに違いないと……。気を取り直し、机の前に座ったものの、度切れた集中力が、遠方の星域の難解な言葉を訳すことを拒絶している。ジュリアスは、椅子に深く座り直して凭れた後、今し方のチャーリーとの会話やキスを思い出しながら、一番下の引き出しを開けた。仕事や日常よく使うものとは無関係の小物がきっちりと収まっている。その一番上の薄い布製の箱をジュリアスは取り出した。蓋を開けると薄紙の下に写真立てがあり、 守護聖
たちの写真が入っていた。記念にと半ば無理矢理にランディたちが、皆を中庭に集めて撮らせたものだ。前列のゼフェルとマルセル、ランディは、Vサインをして笑っている。他の者たちは
一応は、神妙な顔をして収まってはいる。そんな彼らに囲まれて戸惑ったようなに微かな笑顔を作っている自分がいる。ジュリアスはそれを持ち、寝室へと入った。チャーリーが指示してくれたので部屋は昨夜の跡形もなく片付いている。驚いたことに天球儀を投げつけたた壁の傷後すらも残ってはいない。執事が業者の手配に奔走してくれたのだろう。天球儀の置いてあったサイドテーブルに写真立てを置くと、ジュリアスは「ふふ……」と笑った。
小さな写真立ての存在は、天球儀を置いた時のように華やかな洗練された感じはなかったが、安らかな夜を約束してくれるかのような温かみがあった。
チャーリーによってこの部屋が用意された時、サイドテーブルと写真立ての材質と色が似通っていた為、そこに置けば
丁度良いかも知れない……とは思っていたのだ。だが、メイドが掃除の為に入ることもある部屋に、聖地に関わる品を置くのは躊躇われた。それに……。
「やはり心のどこかで構えていたのだろう、守護聖であったことを……。もしもメイドや執事にこの写真の事を尋ねられたら、故郷の街での祭りの仮装……でも言っておけば良い……か」
適当に言い繕う……ということを、覚えたな、私も……と思うと、自嘲が漏れる。
先のチャーリーとのキスににやけてしまう事や、天球儀の呪いの事を含め、聖地外の世界に俗化していく自分を感じる。だがそれは決して
卑下することではないのだろう……とジュリアスは自分の心にけりを付けた。
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