空は晴れ渡り、風が緩やかに吹く気持ちの良い四月の午後……。
机の上に積み重なった書類にクラヴィスは溜息をつく。寒い季節が終わり、気候が良くなると、教皇庁は俄に多忙になる。農閑期の終わりと共にそれぞれの国の政府も息を吹き返したかのように動き出し、様々な依頼事がクラヴィスの元に届けられる。大聖堂での礼拝や音楽会の回数も増え、他国の者たちは、教皇の祝福を望み、訪問
を求める。加えて大陸横断列車の乗車許可を求める者も多くなる。穏やかな季節とは裏腹に、のんびりと時を過ごす事など許されない状態に、ここ数日クラヴィスは追い込まれていた。
午後からの予定が変更になり、それを告げにやって来た執務官を前に、クラヴィスの不機嫌は頂点になる。
スイズ王都でも、一、二を争うほどの大商人との謁見が二時に入ったのである。会わぬと言い出したクラヴィスに、初老の執務官は困惑し、なんとかそれを宥めようと必死である。その大商人は、毎月、多額の寄付を教皇庁にしていたのだが、それには、二人いる娘のうちなんとか一人を、クラヴィスの寵妃にしようという魂胆があったからだった。しかし人物的には、善人で民にも好かれており、平民とはいえ家柄も悪くはない。娘たちも貴族並の教養を身に付けており、容姿の見えも良い娘たちであった。皇妃となればまた別だが、寵妃としては申し分なかろうと枢機官たちは思っており、二十五になろうとする教皇の相手としてぜひに……と話を推し進めているのであった。
「……末の娘は、容姿は、愛らしいものの病弱とのことですから、枢機官様は、上の娘をぜひに……とお薦めしていらっしゃいます。どうかここは早急にご決断を」
「寵妃などいらぬ……と申しておる」
「いえ、年齢的に見ましても、ぜひに」
成人の儀よりしばらくは、皇妃、寵妃の話よりは、教皇としての執務や他国との外交面に力を注げるように回りも配慮していた。だが、教皇となってから五年、二十五歳になるクラヴィスは、世間的にも、婚礼が解禁されたと見なされ、年が明けてから、この手の話が、急に舞い込んで来るようになった。中でもこの大商人は、教皇庁に近い場所に居住していることもあって、あれこれと用を見繕っては積極的に教皇庁に働きかけている。
「では、もう良い。勝手に選べ」
「なんと言うことを仰います。教皇様のお相手ですぞ」
「では……末の娘で良い。病弱なら貰い手もなかなか無かろう」
まるで小動物をやり取りするかの如くクラヴィスはそう言った。リュミエールやルヴァが聞いたら、眉を潜めるような物言いだな……と思いながら、あえてそう言ったのだ。
「それは、いけません。末の娘は、腰が細ぅございます。あのように細い体では、とうてい子は望めにくかろうと……」
その露骨な物言いに、クラヴィスはよけい意固地になる。その娘たちには、何度か逢ったことがある。上の娘は確かに貴族に嫁いでも良いほどに美しく、すらりとした長身で見栄えもする。卒のない優美な物腰で、既に自分が寵妃になることが決まっているかのように微笑む様が、クラヴィスにとっては、何か面白くない。病弱な末の娘は、姉の引き立て役なのを承知しているかのように控えめにしているが、やはり心の奥底では辛いものがあるらしく時折、寂しげに俯いている。ふと我に返り、ハッと顔をあげると、野の花のような暖かさのある笑顔を見せる
様が愛らしい。教皇としての立場を重んじるらば上の娘を選ぶべきだろうか……、一個人としては下の娘のほうが心が和む……とクラヴィスは思う。
「どうしてもと言うなら末の娘にする。それが叶わぬなら、白紙だ。ともかく、もうよい。下がれ。まだ目を通すべき書類は山のようにある」
それ以上は何も言わぬとばかりにクラヴィスは、書類に視線を戻した。
「コホン……ともかくも……二時からの謁見には、娘たちも参るようでございますから、またその時にでも……」
執務官を追い返した後、クラヴィスは溜息を付きながら、次の書類を手にした。スイズの内務大臣からの報告書だった。見慣れた文字が、現在のスイズ国内の情勢を簡素に綴っている。末尾に記してあるスモーキー・クリソプレイズのサインをクラヴィスは鼻先で笑う。スモーキーは、管轄地の鉱山総責任者から、一年ほど前にスイズの内務大臣になった。クリソプレイズ家が、貴族として復籍した後も、頑なにスモーキーを名乗っている。
「そう言えば久しくスモーキーやリュミエールとも逢っていないな……」
とクラヴィスは呟く。時間を割いて茶会の約束を入れても、なかなかそれがままならない。私的な予定は、何かあると真っ先に変更されてしまう。庁内から抜け出そうにも、馬や馬車はガッチリと管理されており
、衛兵たちは、門を開けない。教皇として、尊敬され、その任が厚くなればなるほどに、自身の自由が失われていく。ふと、見た時計の針は、あと少しで二時になろうとしている。どうにも大商人親娘に会う気がしないクラヴィスは、窓を開け放ち気分を入れ替えようとする。
やんわりとした雲が流れていく。鳥のさえずり、木々の軽いざわめき……。
「ふん……」
と誰に言うでもなく呟くと、彼は、長い法衣をたくし上げて窓の桟に足をかける。窓から抜けだしたとあらば、今度から執務室は二階にされてしまうかも知れぬな……と思いながら、裏庭を横切って走っていくクラヴィスだった。
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