今朝方、摘んだばかりの花の入った木桶を両手に持って、サクルは、迎賓館へと向かう。東からの来客の事をまだ彼は知らない。教皇庁内に居住を許されて、その敷地内にある農園や果樹園を管理している者たちは、聖堂や執務室棟のある所から離れていることもあって、教皇庁内の動きとは、ほぼ無縁ののどかな村人のような暮らしをしている。だが、夕刻に迎賓館から使いの者が来て、「明日からしばらくの間、朝摘みの花をいつもよりかなり多く持ってくるように」と命じて行ったのだ。どこかから来客があったのだということはサクルにも予測がつく。花を迎賓館の側仕えに届けた後、彼は迎賓館の裏庭に植えつけたばかりの苗の様子が気に掛かり、そちらに回ってみることにした。池のほとりで、自分よりも三、四つくらいは年上と思われる見知らぬ少年が剣の稽古をしているのが見えた。第一騎士団のヤンであるが、もちろんサクルは彼の事など知る由もなく、迎賓館に宿泊している来客ならば、どこかの国の要人の子息か、お付きの者ということになる。いずれにしても失礼のないようにしなくちゃ……とサクルは小さく会釈し、苗の様子を見たあとすぐにその場から離れようとした。
「おーい、君」
と背後からサクルは、その少年に声を掛けられて立ち止まった。
「はい?」
「おはよう。君は教皇庁の人?」
教皇庁内の仕事をしているのだからそうには違いないのだが、サクルは返事に困った。
「あ、あの僕は、庁内の花畑や果樹園の仕事をしています。庭師の見習いでもあります」
「そっかあ。やっぱりここには、金色の髪の人がいっぱいいるんだなあ。君のはサラサラしてて綺麗な髪だなあ」
この世に金の髪を持つ者など、天から選ばれたほんの数人だけだと信じて育った彼にとっては、この大陸に着いてから、出逢う人の半数ほどが金の髪であることが未だに信じられない気持ちだった。
「俺はヤンって言うんだ、滞在中は毎朝ここで剣の稽古したいんだけどかまわないかな? 君の仕事の邪魔にならない?」
「え、ええ。なりません。僕はこの苗の様子を見に来ただけです。迎賓館の事は、館長に了解を得られるといいと思います」
「うん、そうするよ。ありがとう。……あ、これ、チュチュの花だね。俺の館にもいっはい植えてある。母さんが好きだったんだ」
「チュチュの花?」
サクルは呟いた。自分たちは、この花をルガリタと呼ぶ。南のヘイヤ国やダダスでも、少し発音が違うだけでそう大差ない。このヤンという少年は一体どこの国の人なのだろう? とサクルは思った。
「チュチュ……と言わないの? 君たちの大陸では何と言うんだい?」
「ルガリタ……です」
“君たちの大陸”という言い方に、サクルの鼓動が早くなった。もしや東からのお客人なのなんだろうか……と。いつの日にかやって来る東からの来客の事は、教皇庁の外れにあるインファの木の下でさぼっているクラヴィスから何度か聞かされたことがある。それをクラヴィスが心待ちにしていたことも……。
「あの……もしや東からの……?」
その質問にヤンは元気よく頷き、にこっと笑った。
「うわあ、本当にいらしたんだ。クラヴィス様、喜んでるだろうなあ」
「クラヴィス様って教皇様のことだよね? ものすごく尊いお方だってね? 昨日の夜、食事を一緒にしたよ。君は教皇様と親しいの?」
「え、ええ、まあ」
鉱山で一緒に働いていた……とは言えないサクルは曖昧に返事をした。その時、迎賓館の建物の方から、誰かの呼ぶ声がした。
「おーい、ヤン。そろそろ稽古は切り上げんか」
「はーい、すぐ行くよーー」
ヤンは大きな声で返事をした。
「あれ一緒に来た俺の祖父なんだ。教皇様の計らいで滞在中は、庁内の方にいろいろ教えて貰えることになったんだよ。えっと、この大陸の国の政治の事とか、いろんな技術とか。爺ちゃんは医術について教わることにしたらしい。俺は、こちらの衛兵組織について教わるんだ。武術とかも。ねえ、明日の朝もここに来るかい? 逢えたら西の事をいろいろ聞きたいな」
ヤンから笑顔でそう言われたサクルは、小さく頷いた。
それから、数日が過ぎ、サクルは毎朝、花を届けた帰りに池のほとりで剣の稽古をしているヤンと話し込む仲になった。他の東から来た騎士団の者たちも、庁内でそれぞれが何かを学んで帰ろうとして積極的に動き、気の合った執務官と親しくなっていった。
ジュリアス、オリヴィエ、オスカーも、連日のクラヴィスやリュミエール、ルヴァとの茶会を通じて、各人だけで身分に気を使わず、各々の名で呼び合えるほど親密になっていた。その茶会の席に向かう廊下で、オリヴィエが大きな溜息をついた。
「どうした? 茶会が嫌なのか?」
先を歩いていたオスカーとジュリアスが振り向いた。
「嫌じゃないさ。お茶もお菓子も素晴らしく美味だから楽しみにしてるし、リュミエールもルヴァも話してると楽しいし。教皇……クラヴィスだって、もっと高貴なお堅い人かと思ったけど、そうじゃなかったし大好きになったよ。けどさ……」
「けど……、なんだよ?」
「せっかく西に来たけど、結局、わかんないんだな……と思って。あの石のことも、自分のことも……」
「そうか……。お前、大山脈の麓の村に捨てられてたんだよな。ジュリアス様の母君も……。茶会で彼らとはいろんな話しをするけど、結局、彼らもまた、知らないことが多いんだよな……」
「ねえ、ジュリアス、ずっとここに滞在するわけには行かないだろう? 船の修繕もそろそろ終わるだろうし、気候の良いうちに戻らなきゃならない」
「そうだな。そろそろ……、と思っている。ただ……」
ジュリアスはそこで、視線を窓の外に移した。午後の日差しを反射して輝く大聖堂の天窓が見えている。
「クラヴィスも私も、出逢ってから、ずっと何か胸騒ぎのようなものを感じているのだ」
「それって、クラヴィスが言ってた古い記録にある『時が満ちるまで……』っていう件と関係するようなこと?」
「聖地……か。俺はなんだかまだ信じる気にはなれないですよ」
「そうだよね。クラヴィスの兄君が聖地にいるっていうんなら、やって来て何か教えてくれればいいのにさ」
口を尖らせたオリヴィエの言い様が、可笑しくてオスカーは、プッと吹き出し、ジュリアスもまた自分の心を代弁されたようで失笑した。気を取り直した三人は、再び茶会の席である迎賓館の一室へと急いだ。
「ん?」
突然、ジュリアスは誰かに呼ばれた気がして、立ち止まり辺りを見回した。名を呼ばれたわけではなく、誰かが自分を呼ぶ気配を感じた……と言った方が正しい。
「いや、何でもない」
ジュリアスはそう言い歩き始めた。その時、廊下の先を横切って走っていくクラヴィスと、その後に続くリュミエールとルヴァの姿が見えた。
「どうしたのー?」
とオリヴィエが声を掛けると、クラヴィスはそのまま通り過ぎたが、リュミエールとルヴァが立ち止まった。
「ああ〜、皆さん〜」
ルヴァもリュミエールも相当慌てているらしく、衣装の裾をたくし上げんばかりになって駆け寄って来る。
「クラヴィス様が、急に大聖堂へ向かわれたんです。何か気に掛かると仰って。あの……セレスタイト様の声が聞こえた気がすると……」
リュミエールは不安気な面持ちでそう言った。ジュリアスたちは互いに顔を見合わせた。
「私も今、誰かに呼ばれた気がした……」
ジュリアスの言葉に、その場にいた皆が、一瞬、息を飲んだ。
「とにかく私たちも大聖堂へ行ってみましょう」
とルヴァが言った時には、リュミエールとオリヴィエが先に聖堂へと続く裏庭の回廊に向かって走り出していた。不安と期待が胸に押し寄せる中、ジュリアスたちは聖堂へと急ぐのだった。
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