第七章 光の道、遙かなる処

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 教皇庁内にある教皇一族の住まう館は、大聖堂や執務室棟から中庭を挟んだ所にある。ジェイド公のようなスイズの大貴族の館と比べると、はるかに小さいものの、その造りや調度品の豪華さはスイズやダダスの王城のそれに匹敵するものであった。
 その美しい館の教皇の私室では、夕刻の穏やかなひとときが流れている。教皇は、ゆったりと椅子に腰掛けて本を読み、その傍らでは、皇妃が刺繍をしていた。自分の背丈に近いほど長い帯状の絹布に彼女は、忍耐強く模様を刺し続ける。それは、秋に行われるはずの冠授与式の時に、新教皇が身に付ける法衣の衿に、縫いつけられるものだった。教皇の交代を行う……その話しを、教皇とセレスタイトから聞いた時、少なからず、ほっとした皇妃であった。
 クラヴィスの事はもちろん気にはなっている。だがそれ以上に、気力も体力も衰えたまま教皇を続けている夫と、何も知らない周囲の者たちが寄せる次期教皇への期待という重圧の中にいる息子の健康状態を思うと、その決断は、“良かった……”と心から安堵せずにはいられなかった。
 新しい法衣の衿の部分は、一番近しい女性が自ら刺繍する風習があることから、彼女は、さっそくセレスタイトの印でもある美しい空色の糸を用意しようとした。そんな皇妃にセレスタイトは、先手を打つように、こう言ったのだった。
『母上、刺繍糸はいつもの青ではなく、もっと濃い青にしてください』と。
 彼が指し示した色見本の糸は、黒に近いほどの紫ががった深い青色のものだった。
『紫紺の糸……それでは、まるで、クラヴィスの……』と言いかけた皇妃は、セレスタイトの気持ちを察し黙り込んだ。
『スイズとダダスの大国同志の戦いの影響は、この大陸全土に及んでいます。クラヴィスが何処にいるかは判らないけれど、聖地からのお力を持つ身なれば、その事は肌身に染みて感じているはず。そして、父上のお力が無くなったことも……。そんな状態を知っておきながら、それでも尚、隠れ暮らすことは、クラヴィスには出来ないはずだ。きっと、近いうちに戻ってくると私は思います。もし……秋までに戻って来なかったら、その時は、私がその法衣を着ますから 。私にだってその色は似合うと思いますよ』
 セレスタイトの言葉に、皇妃は頷き、彼の示した通りの色糸で刺繍を始めたのだった。
『良い色ですね。静かな……日が落ちたばかりの空の色に似ている。教皇となる身に相応しい荘厳な色だ』
 皇妃の傍らで、その手元を覗き込んでセレスタイトが言った。
 
“何故かしら……。セレスタイトと接していると、自分の中の正しい部分のみが、際立つように感じるわ。矮小な妬みなど消えてしまって。クラヴィスが、聖地からの力を持っていると聞いた時は、とても動揺し、あの子を一瞬でも憎いと思ってしまった自分を恥じ入るわ。セレスタイトを見ていると、正しい道が自ずと見えてくる気がする。小さな頃から真っ直ぐな心の子だったけれど、クラヴィスの事があったせいかしら、ここ最近は、まるで賢者のような風格さえ出て来たよう……”
 皇妃はそう思いながら、自慢の息子に微笑みかけた……。
 
 数日前にセレスタイトと交わした会話を思い出しながら、皇妃は、“本当にそうね……この色は、威厳もあって法衣に使うには良い色だわ。クラヴィスの黒髪とも溶け合うように映えるでしょう”
 と心の中で呟いた。皇妃は、今はもう誰が教皇になってもかまわないと心からそう思っていた。
“王座を巡って兄弟同志が骨肉の争いをしている所もあるというのに、私の息子たちは、なんて素晴らしい子たちなんでしょう……”
 本当の所は判らないが、クラヴィスが姿を隠した理由は、恐らくはセレスタイトを教皇にせんが為……、そう思うと皇妃には、クラヴィスが、いじらしく思えてくるのだった。いつも控えめに、息を潜めるようにして過ごしていたクラヴィスの姿を皇妃は思い出す。彼女の中にいるクラヴィスは、まだ幼さの残る十五歳の少年のままのクラヴィスだった。
“背丈は、随分伸びたかしらね。セレスタイトを越えたかも知れないわ。少し長めに作っておいた方がいいかしら……”
 皇妃は、絹地を手繰り寄せて、長さを確認する。針を置き、顔を上げた彼女は、飾り棚の時計に目をやった。食事の為に、セレスタイトと約束している時間を少し過ぎている。
「あら、もうこんな時間。セレスタイトはどうしたのかしら?」
 皇妃がそう言うと、教皇は、本から顔を上げた。
「きりの良い所まで仕事を片づけていしまっているのだろう」
「なら良いのですけれど。あの子が、何の連絡もなしに約束の時間を違えたことはありませんし……」
「うむ……そうだな。執務室まで迎えに行こうか。食事前に少し歩くのも良かろう」
 教皇は本を、皇妃は布地を置き、立ち上がった。館を出て中庭に入り、執務室棟へと続く長い外廊下を二人はゆっくりと進んだ。
「ん……」
 と、教皇が小さな声をあげた。
「どうかなさいまして?」
「いや……何でもないよ」
 教皇は、何かを否定するように頭をごく軽く振り、皇妃に微笑みかけた後、廊下の両脇にずっと続いている花々に目をやった。そして、咲き乱れる色とりどりの花に、「この間まで固い蕾だったのに、よく咲いている」と言った。
「ええ、本当に。良い季節になりました。最近は、汗ばむような強い日差しの時もありますものね」
 皇妃がそう言った時、教皇は急に立ち止まった。そして、自分の五感を澄ますように一旦、瞳を閉じた。
「貴方!」
 皇妃は、彼が具合が悪くなったのかと思い、慌てて、その背中を支えるように手を添えた。
「静かに……大丈夫……気分が悪いのではない」
 教皇は小声でそう言うと、皇妃が、それ以上、物言わぬように彼女の口元にそっと手を添えた。
“一体、どうなさったの?”
 皇妃は、その思いを伝えるように、教皇の背中に触れていた指先に、少し力を込めた。
「……感じるのだ。聖地よりのお力を……」
 教皇は、皇妃の口元から手を外し、瞳を閉じたままそう言った。
「で、でも、もうご自身の中には、それはないと……」
「ああ。だが……微弱ではあるが長年、自身の体に宿っていたものだから、まだ、その気配くらいは感じられるようだ……」
「どういうことですの? では、また力が少しお戻りに?」
「いや……違う。自身ではなくどこか違う所から……それを感じる。近くに……」
 そう答えた後、教皇は瞳を開けた。
「クラヴィス! クラヴィスが戻って来たのではありませんか? ああ、そうですわ、きっと。それでセレスタイトの執務室にいるんですよ。だからあの子ったら、私たちとの時間を違えたのだわ、話し込んでいて!」
 皇妃が上擦った声でそう言うと、教皇も頷いた。
 執務室棟は、彼らが居住している館のような華美な雰囲気はないが、天井が高く、重厚な造りになっている。無駄な装飾がない分、自然の光が、たっぷりとまっすぐに入り込むように設えられた回廊は、夕刻の仄かに赤い光に包まれている。その中を、教皇と皇妃は、長い衣装の裾を持ち上げ、小走りになってセレスタイトの執務室に向かった。
「セレスタイト、クラヴィスが戻っているのか?」
 扉を叩くこともせず、慌てて教皇は、セレスタイトの執務室に入った。そのすぐ後に、皇妃が続く。静寂が彼らによって破られたが、その呼びかけには何の返事もない。室内が、再び静かになった。
 そこにある光景に、教皇と皇妃は立ち尽くす……。開け放たれた窓を背景にして置かれた大きな机の傍ら、血の染みた敷物の中に倒れているセレスタイト。そして、何より彼らを、凍り付いたようにさせたのは、窓辺に陰のように立っている一人の人物の存在だった。
 このような状況下では、誰しもその見知らぬ人物に対して警戒心を持ち、セレスタイトが血の中に倒れているのを見れば、その原因がその人物にあると考えるものであるが、 教皇は違っていた。それが誰であるか知っているかのように、 彼の体は自然と傅く体勢になる。皇妃は、その場に膝から崩れ落ちるようにして、座り込んだ後、その人物を気にしながらも、倒れているセレスタイトの近くまで床を這った。その体に手をかけ、我が子の頬に触れる。
「セ……セレスタイト? どうしたのです? セレスタイト!」
 その悲鳴のような叫びによって再び静寂が破られた時、陰のように静かに佇んでいた人物が口を開いた。
「この者の名はセレスタイト……」
 何かの確認をするように呟いた声は、抑揚はないが、深く響き渡るものだった。教皇と皇妃は、頷くの精一杯だった。そして、再び、彼が言った。
「私は、聖地より参った闇の守護聖である」と。

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