半時間ほどクラヴィスたちは、暗闇に近いの坑道を歩き続けた。目が慣れてくると、壁面に意識的に生やしてある光苔のごく僅かなぼんやりとした光が判断でき、それを目印にして前へ前へと進んだ。
「!」
足下にある大きな石に気づかずクラヴィスは躓いた。地面に手を付いた時に痛めた掌と、打ち付けた膝から血が滲む感覚がしているのが判る。
「おい、大丈夫か?」
後の男に手を貸されながら立ち上がったクラヴィスに、サクルが申し訳なさそうに謝った。
「ごめん……僕がちゃんと見てたら良かった」
「いや、気にするな。私が前方にばかり気を取られてたから。皆、気をつけてくれ、このあたりから道が悪くなってる。大きな石も転がっているぞ」
クラヴィスはそう言った後、また壁を伝って歩き始めた。しばらく行くと、サクルがクラヴィスの上着の裾を引っ張った。そして「何か音がする」と言った。
皆、一斉に耳を澄ました。壁に耳を押し当てた者が、ドドド……と言う地響きを確認した。その音は、やがて大きくなりクラヴィスたちの立っている地面を揺るがせて鳴り続けた。皆は怯えてその場に座り込んだ。やがて地響きは収まり、辺りは嘘のように静かになった。
「今のは地震か……?」
誰かが不安気に言った。
「いや……今のは水だ……」
別の誰かが呟いた。水……と口々に皆が呟いた。
「爆発音がしてからそんなに時間は経ってねえよ……中にいる者のことなんか関係なしに水を流し込みやがったってのか?……あのまま助けを信じて待ってた連中は……。俺たちも一歩違えば……」
その事実に、その場にいた全員は脱力感に襲われ、歩き続けた疲れもあって、誰一人立ち上がれずにいた。膝を抱えて啜り泣き出す者もいた。クラヴィスも、壁に凭れたまま冷や汗を拭っていた。
「こんな所で死んじゃうのは嫌だ……」
クラヴィスの隣にいたサクルがまた泣き出した。
“そうだな……こんな所で死ぬのは私も嫌だ……”
と、クラヴィスも思った。そして、“自分など死んだ方がいいのだと思っていたのに、どこで死のうが関係ないだろう……”とふと思いもした。啜り泣いていた男が、祈りの言葉を呟き始めた。教皇様に、聖地にお祈りするのだと言って。誰もが黙ってそれを聞いていた。クラヴィスもまた。
あの日、あの崖から突き落とされ、死ぬはずだった命が永らえ、鉱山に流れついてから、ダークスの粉塵と泥にまみれて一日を生き長らえているだけの自分が、今こうして、じっくりと死と向かい合ってみると、心の底から沸き上がって来る生きることへの執着に、クラヴィス自身、驚いていた。
“私はどうしたいのだろう? どう生きたいのだろう?”
クラヴィスは、冷静に自分に問いかける。心に教皇の顔が浮かんだ。そして、皇妃、セレスタイト……。家族と言い切るには、わだかまりのある者たちの顔だった。それでもやはり、父と言えば教皇を、母と言えば皇妃を思う。幼い時に生き別れになった実母の顔は
、とうに忘れてしまっていた。そして、兄と言えばセレスタイトの顔を思い浮かべる。身内であるジェイド公より命を狙われたという理由があるにせよ、こんな形で隠伏しているより、きちんと、たとえ
自分が聖地よりの力を持っていようとも、次代の教皇に相応しいのはセレスタイトなのだと伝え、その上で、どのように生きるべきかを考えるのが筋ではなかったか……と、クラヴィスは思う。
“私は、愚かなことをしたのかも知れない……”
セレスタイトを思っての事とはいえ、結局は、次期教皇という重圧から逃げ出したかっただけではないかとさえ思えてくるのだった。
「俺、死ぬまでに、いっぺんでいいから教皇庁の大聖堂に行ってみたかったなあ」
鉱夫の一人がポツリ……と言った。
「そりゃ見事な場所だぜ。天井まで続く色硝子の窓から光が差し込んで、この世の場所とは思えねぇぜ。いっぺんに何百人も入れるような広い聖堂でよぉ」
別の鉱夫の言葉に、クラヴィスは、懐かしい大聖堂を思い浮かべる。
「見て来たようなことを言うじゃねぇか? 入ったことあンのか?」
「いや俺はねぇよ。お袋がスイズ王都の外れにある農家で住み込みして働いてんだ。それで、月にいっぺんある一般公開の音楽会で教皇庁に行くのを唯一の楽しみにしてる。門の前で籤を引くんだとよ。当たって中に入れることは滅多にないけど、庭先までは入れて貰えるからそこで開け放たれた窓から様子見出来るらしい。その時、教皇様が
、バルコニーからお手をふりなさるんだとよ。そりゃもう有り難いのなんのって。お袋、いっつも同じこと手紙で自慢しやがるんだ」
「へえ」
「けど、教皇様、お体がお悪いみてぇだな。もうここ一年ほど音楽会におでましにならねぇんだとよ」
その言葉に、クラヴィスは、ハッとして顔を上げた。
“楽しみにしている定例の音楽会にも出られないほどに、体調が悪い……?”
それは、クラヴィスにも心当たりがあった。父と共有しているあの聖地から賜った力が、次第に強くなっていくのをここ一年ほどの間、感じていた。これは父の力が弱まっている証拠ではないか……そんな気がずっとしていた彼にとっては、男の話はそれを裏付けるようなものだった。もしや父の具合が悪い原因のひとつが、自分の事ではないか……と思うとクラヴィスは、このまま一生隠れて生きる訳にはいかない……と思い始めていた。
“生きてここから出られたら、せめて文を出そう……か”
そして、クラヴィスは、自分に向かって叱咤するように言った。
「行こう……」
立ち上がり、まだ座り込んでいる全員に向かって、もう一度言った。
「さあ、歩こう。私たちはまだ生きているんだぞ」
クラヴィスは、サクルに手を差し伸べた。まだ小さな手が、しっかりとクラヴィスの手を掴んだ。続いて他の者たちが立ち上がる。そして彼らは、また歩き出した。坑道は、上へと確実に続いている。僅かな勾配がそれを証明している。
「上がり道がこんなに嬉しいことってなかったね」
クシュッと鼻を啜ってサクルが言った。
「ははは、違いねぇや」
と後の男が、彼の頭を撫でた。それからしばらく男たちは、無言でただ一心に歩き続けた。緩やかだった勾配が、ややきつくなり始めた場所で、クラヴィスは立ち止まった。
「どうした? 何かあったか?」
後の者がクラヴィスに声を掛けた。
「道が、二手に分かれている……」
クラヴィスは目を凝らして前方を見た。左右に同じほどの大きさの坑道が続いている。
「どっちだ?」
男たちもクラヴィスと同様に前に出て坑道を見定めようとした。
「そりゃ、上へ繋がってるんだから、上がり道になってる方じゃねぇのか?」
右の方に数歩歩いてみた男が言った。
「違いねぇ、右だな」
他の者たちも頷き、クラヴィスもそちらに向かって歩き出そうとした時、またサクルがクラヴィスの服の裾を引っ張った。
「ねぇ……、左から風が吹いてくるよ」
「なんだと?」
慌てて振り返った男たちが言った。
「何ンも感じねぇぞ。いい加減なこと言ってんじゃねぇぞ」
「ううん、ちょっとだけど頬に当たるよ。ちょっとしゃがんでみて」
サクルがそう言うと、男たちは、彼の背丈ほどに身を屈めた。
「わかんねぇけどなあ……」
「てめぇは、面の皮が厚いから判ンねえんだよ!」
皆、風を感じようと五感を研ぎ澄ました。
「あ……本当だ……」
クラヴィスは、頬に当たる微かな風を感じ呟いた。
「風が吹いてるってことは……どっかが開いてるんだね」
サクルが言うと、男たちは頷いた。
「風通しの穴が開いてるだけかも知れねぇが……左に行ってみようや」
男たちは、クラヴィスを先頭に左の坑道を進み出した。
「何ぁに、行き止まりならまた引き返せばいいのさ」
「そうだ、そうだ。時間はたっぷりあらあ。腹減ったけどよ」
誰かが言った。空気の流れを感じたことで、皆の心が明るくなっていた。平坦な道がしばらく続いたあと、道は急に上がりになった。前屈みになりながら、はぁはぁと息を切らして一行は歩く。
「もうだいぶ来たんじゃないか? 風の流れもはっきり判るし。クラヴィス、何ンか見えねぇか?」
一番後を歩く男が言った。
「いや、まだ、……ん?」
クラヴィスは、何も見えないと答えようとして、ずっと前方にチラリと灯りを見た気がして言い淀んだ。
「何でぇ?」
「今、灯りが見えた気がした。カンテラのような小さい灯りが」
「本当かっ? やっぱり誰か上で待ってくれてるんだ。俺たちが上がってくると思って、出口を開けてくれてたんだ!」
「やったあ!! 助かるぞ、やったな!」
「だめだよ、まだそんな大きい声だしちゃ。古い坑道なんだよ、落盤が起きたらどうするのさ?」
大声で喜び合う男たちを、サクルが諫めた。男たちは静まりかえったあと、思わず吹き出した。
「違げぇねぇ。すんませんでした、サクルさん」
一番はしゃいだ男が大袈裟に謝ると、また笑いが起こる。クラヴィスも一緒に笑った。
「クラヴィス、お前のお陰だ。お前が旧坑道に気づいてくれなかったら、今頃は……」
「クラヴィス、ありがとうな。いつも一人で本なんか読んでやがったから、お高くとまってやがるって嫌みばっか言ってすまなかった」
「俺も謝るぜ。むっつりすけべぇって言って悪かった」
「そうなのか?」
「そうさ。たまに年増女のガネットとこから朝帰りし……」
「バカッ、ボウズが、聞いてンじゃねぇか!」
クラヴィスを取り囲んで男たちが笑い合い、彼の肩や背中を軽く叩く。クラヴィスは照れくさそうに俯き、「判ったから、先を急ごう」と言い、歩き出した。
やがて誰の目にも、目前の灯りがはっきりと映るようになった。それが、坑穴の出入り口に、ぶら下げられたカンテラの灯りであると判ると、男たちは早足になった。
「誰かいるかーーーっ、帰ってきたぞーーぉ」
一人の男が待ちきれずに叫んだ。
「おとーうさぁーん、お父さーん」
サクルも叫ぶ。男たちは、一斉に「おーい、おおぅーい」と叫んだ。
クラヴィスも一緒に声を張り上げた。生まれて初めて、腹の奥底から、これ以上出ないほどの大声を出していた。
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