第四章 鐘声、それぞれの場所

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 古楽器の修得はともかく、ルダ音楽院での学業は、既にスイズ大学の予科の課程を終えていたリュミエールにとっては物足りないものがあった。そんな彼の様子を察していた学長の配慮があって、教育係として 、ダダス大学を異例の早さで、しかも主席で卒業したばかりのルヴァが就任することになったのだが、その若き文官補佐の噂だけは、リュミエールの耳にも入っていた。
「末の王子様、もう間もなく、ルヴァ殿が、ご挨拶に参られるお時間ですが……」
 リュミエール付きの文官が、事務的な口調でそう言った。彼もまたスイズから同行した者で、中の王子アジュライトの息が掛かっている。リュミエールについての……というよりは、ルダ国との外交窓口の仕事の方が彼にとっては重視すべき事であった。
「特別授業をご一緒したいとのフローライト嬢のお申し出の事ですが」
 文官は何か書類のようなものに目を通しながら言った。
「わたくしは、かまわないと伝えましたが? 何か?」
 先日、その申し出を学長から聞かされた時、リュミエールは快諾してあった。
「いえ、こちらから改めてお断りさせて頂きました」
 文官は大したことではない……という風にさらりと言い、軽く一礼し退室しようとする。
「何故? 彼女とは、それほど言葉を交わしたことはありませんが、優秀な方のようですが?」
 リュミエールは彼の背中に問いただした。ゆっくりと向き直った文官は、冷たい声で答える。
「成績の問題ではありません。フローライト嬢は、ダダスの貴族のご出身です。何かお国からの策略があって、お近づきになろうとされているかも知れません」
 何をするにもまずリュミエールの意志よりよりも、スイズの政策が優先される。慣れているとはいえ、リュミエールはうんざり……と言った表情で、一応は「そういう ことを画策されている方のようには見えませんが……」と言ってみた。
「たとえ何ら作為的な事がなくても、妙齢の女性、しかもダダスのそれなりの家柄の方との同席は避けて頂きませんと」
 文官は声を潜めるようにして言った。
「どういう意味ですか?」
「間違いがあってからでは困る……ということです。名も無き家の娘ならば、いかようにも処理出来ますが、相手がダダスの名家の令嬢となるとやっかいです。末の王子様も御歳十五になられましたからには、どういう意味かは、もうお判りかと思いますが」
 そう言われて、リュミエールの顔がカッと熱くなる。腹立たしさと恥ずかしさとで。
「わかりました。もう下がってよろしい」
 リュミエールはそれを悟られまいと、文官にくるりと背を向けて、書き物をしているふりをしてそう言った。彼が退室した後も、リュミエールの心は怒りと羞恥心とで平静を保てないでいた。
 故郷からの付け届けが、いつまでも子ども扱いの砂糖菓子かと思えば、このような事にも目を光らされている……そのアンバランスさが、多感な年頃のリュミエールの心を尚更、傷つけていた。
 ややあって先の文官が、ルヴァの到着を知らせに来た。リュミエールが応接室に行くと、畏まった顔つきで、ルヴァが待っていた。兄アジュライトのようないかにも切れ者といった風貌を思い描いていたリュミエールは、ルヴァの優しげな雰囲気にほっとしたものを感じながら、先ほどの文官に紹介されるまま、お互いに挨拶を交わし着座した。
「ルヴァ先生と、今後の授業内容についてお話しを伺います。お前はもう下がってよろしい」
 壁際に控えている文官にリュミエールはそう言うと、些か不満顔の彼が、渋々退室するまで言葉を発しなかった。ルヴァは、リュミエールの固い表情と文官の様子に、“おや?”と思いながらも、黙って成り行きを見ていた。文官が扉を閉めると、リュミエールは 、ルヴァに向かって頭を下げた。
「実は先にお詫びしなければならないことがあります。フローライト嬢のことで……」
 リュミエールは、扉の向こうに控えているであろう文官を気にして小声で言った。
「せっかくのお申し出だったのですが……」
 リュミエールは、理由を言ったものかどうか口ごもる。
“いろいろとお立場があるのでしょう……”とルヴァは思う。スイズとダダスの関係については、ダダス政府のお膝元である大学にいたルヴァの耳にも入ってきている。
「恐らく政治的な事もおありなのでしょうから……」
 穏やかな声でルヴァがそう言うと、リュミエールの口元が緩んだ。
「判って頂いて、恐れ入ります」
「フローライトさんには私からもよく言っておきます。さあ、どうかもうお気になさらずに。授業の内容をご希望にそって書き記して来たのですが、目を通して頂けますか?」
「はい。ルヴァ先生」
「あー、その先生はやめて頂けませんか? 私は、正式な教師ではありませし、何か落ち着きませんのでー」
 ルヴァがそう言うと、リュミエールは少し考えた風をして、 「では……ルヴァ様とお呼びさせて下さい」と言った。
「様、ですか……」
 ルヴァは、困った顔をしている。
「わたくしの方が、年下で教えを請う立場ですから。それと、どうかリュミエールとお呼び下さい」
「そういうわけには……」
「学徒としてルダに参っているのだと、判って貰いたいのです。音楽院の先生方にも、お願いしてそう呼んで頂いています。……一番判って欲しいのは、わたくしの身の回りの者たちに、です。あの文官や、警護の武官、 側仕え、そして……国からの使者……何の為にわたくしがここに来たか、よく心して貰いたいのです。たとえ裏には様々な理由があったとしても」
 リュミエールは、独り言を呟くようにそう言った。ルヴァは黙って頷いた。この王子は、地位に甘んじて楽な道を歩くことをよしとしない人なのだと思うと、それが嬉しくもあった。
「よくわかりました。では、リュミエール、来週から授業を始めます。そこに指定してある書物の一章に目を通しておいて下さい」
 ルヴァが、そう言うとリュミエールの顔がパッと明るくなった。
「わかりました、ルヴァ様」
 微笑んだ表情に、やっと少年らしいあどけなさが見え、安堵するルヴァだった。

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