翌日、教皇は、皇妃とセレスタイトを私室に呼び寄せた。
「改まってお話とは何ですの? 宴の事で何かありまして?」
皇妃は、難しい顔をしている教皇の側に座り、問いかけた。
「うむ……今からする話は、まだ誰にも話しておらぬ。身内の……家族だけの話として、まず聞いて欲しい」
教皇はそう言った後、二人を交互に見て微かな溜息をつき、話を切り出した。
「次代の事だ。次期、教皇は……クラヴィスになるようだ……」
一瞬の沈黙の後、皇妃とセレスタイトは、互いに顔を見合わせた。
「あの……どういうことでしょう……? クラヴィスになるようだ、とは? 父上、何処か体の具合がお悪いのですか? それで、御身から、お力の流出が感じられるのですか?」
母である皇妃の気持ちを代弁するように、セレスタイトが心配そうに尋ねた。
「いいや、どこも不調な所はないのだよ……。ただ……お前たちも知っているだろう。その身に、聖地よりお預かりしている力のある者にしか見えない星……すなわち聖地が、クラヴィスには見え
ているようだ。しかも、ずっと幼い頃から……昨日、偶然それが判ったのだ」
「もしやクラヴィスが、口から出任せを言っているのでは? いえ……嘘を言ってるということでなく……そう……あの子は、星が好きですもの。見たい、見たいと思っていて、それが高まって、まるで幻夢のように、見えていると信じているだけでは?」
言葉を慎重に選び皇妃がそう言った。教皇は首を振った。
「聖地……その星がどのようなものなのか、私はそれを誰にも話してはいない。次代を継ぐ者が見えたと言った時、本当にそれが見えているかを尋ねる時の為に、どのように見えているかは話してはならぬことになっている。クラヴィスは、的確にそれに答えた。色や方角……間違いなく、あれには聖地が見えているのだ……。それに、心を研ぎ澄ませ
れば判るはずだったのだ……クラヴィスにも私と同じ力があるのだと……夕べ、聖地を見つめるクラヴィスの横で、私はそれを感じた。十年もクラヴィスの側にいながら、私は息子の何を見ていたのだ
ろう……」
辛そうに教皇はそう言った。
「父上、何をそんなにお辛そうになさっているのです? クラヴィスが次代の教皇に決まったのなら、喜ばしいことではありませんか。聖地からお預かりした力は、ちゃんと次代に受け継がれた、我ら一族の務めは果たしたことになります。
もしや、私の事を案じて下さっていたんですか? 確かに、私は、次代の教皇になるのだと信じて、その為に今日まで努力をしてきたつもりですが、以後は、クラヴィスが教皇となった時、それを支える第一枢機官として頑張りますよ。クラヴィスはどうしたのです? もうお伝えになったのですか?」
セレスタイトは、きっぱりとそう言った。彼から目を逸らすように俯いていた教皇が、顔を上げた。
「お前……。そう言ってくれるのか。おお……お前は本当に心優しい子だ」
教皇はセレスタイトの手を取った。
「私はもう成人の儀を終えたのですよ、子はないでしょう、子は」
セレスタイトは笑いながら、父の手を握り返した。堅い表情の崩れた教皇の横で皇妃は、そっと震える指先を握りしめて隠した。
「あなた……。クラヴィスには今しばらくはこの事は伏せておいた方が良いのではないでしょうか? あの子はすぐに物思いに沈む質ですから、学業に差し支えがあるといけませんし。それに皆の者に戸惑いがあるでしょうし……」
“心の準備が出来ていないのはわたくし自身なのだけれど……”
皇妃は、整理の着かない気持ちに鞭を打ち、そう言うと教皇は頷いた。
「そうだな。まさか自分が次代になるとは思ってはいなかっただろうからな。他の者たちも次代はセレスタイトと思い込んでいる。今しばらくはここだけの話としておこう。ああ、本当に……良かった、クラヴィスが
、次代になる事をお前たちに受け入れて貰えて。夕べは一睡もできなかったのだぞ」
教皇は心から安堵した様子で、ようやく姿勢を崩した。
「何を今更、ご心配なさっていたの? 六つになるかならずの時から、クラヴィスには我が子として接して参りましたのよ……」
“ええ……そうですとも……実の子ではないあの子を、文句一つ言わずに迎え入れて……”
皇妃の言葉に、教皇とセレスタイトも穏やかに微笑み頷いた。彼女の複雑な心中に、彼らはまったく気づいてはいなかった。
その日の午後になって、皇妃の元に彼女の兄であるジェイド公が訪れていた。甥であるセレスタイトの成人の儀式や宴に参加していた最後の客である彼は、スイズ国内にある公領に戻るつもりで挨拶をしにやって来たのだった。
「いい成人の儀であったな。これで、セレスタイトの立派さは各国の者たちにも知れる所となったな。次は教皇就任式だ。こちらはまだ数年先の事だろうが」
何も知らない彼が、何気なく言った言葉に皇妃の顔が曇る。何も答えず、目を逸らした皇妃に、「どうした? 何かあったのか?」とジェイドは、尋ねた。
「セレスタイトは教皇にはなりませんわ……お兄様」
皇妃は顔を逸らしたまま言った。
「何?」
「次代は、クラヴィスですわ」
「ばかな……」
クラヴィスの事は家族だけの話……と釘は差されてはいたものの、彼女にとっては、ジェイドは実の兄である。教皇庁の枢機官でもある彼の事を、夫である教皇は信頼している。話してしまっても差し支えないだろう……と彼女は思い、先刻、教皇から伝えられた事を兄に話した。
「あんな……下賤の女の、子どもが……、何故?……」
ジェイドは眉間に皺を寄せ、そう呟いた。兄が、あからさまにそう言ったことで、皇妃の心に溜めていた気持ちが、堰を切ったように溢れ出した。
「たった一度の夫の不貞、責めるのは愚かなことだと思っておりました。
それに、各国の王族の姫たちを差し置いて、ただのスイズ国の公爵家から嫁いだわたくしは、誰よりも賢明な皇妃であらねば、と思いました。さすがは教皇の
お選びになった妃……と皆に言われるようクラヴィスに接して参りましたわ。セレスタイトと同じようにとはいかなかったでしょうけれど、世間によくあるように、クラヴィスに辛く当たったりは決して致しませんでした。あの子もまた身の程を弁えていたのか、セレスタイトより目立とうとはせず、何事に置いても控えめにしていましたし……」
溜息と供に、彼女の涙が頬を伝う。
「たった一度の不貞だからこそ悔やまれるのだ。ちゃんとした家柄の寵妃の子ならば諦めもつくし、前例の無いことではなかったからな……粗野なヘイア国の……しかも酒場の女だぞ!」
「でも……もう仕方ありませんわね。聖地はクラヴィスをお選びになったのですもの」
皇妃がそう言ったあと、ジェイド公はしばらく頭を抱えて考え込んでいた。
「……判った。クラヴィスが、次代となるなら、せめて身辺は綺麗にしておかねばな」
と、彼は指を組み合わせ、何かを謀るようにそう言った。
「どういうことですの?」
「クラヴィスの母親は既に死んでいるから問題はないとして、確か、まだ伯父とやらが生きていたはずだが……」
「ええ。クラヴィスを引き取る時に渡したお金で、店を大きくしたらしいですけれど。いつだったかしら……五年ほど前に……突然、便りが来ました。
店を畳みフングの鉱山町に移るとかで、その旅費を出して貰えぬかとの無心の便りでした。大した額でもなかったので送ってやりましたわ。あれからは何も言って来ませんけれど……」
「もしクラヴィスが教皇になると知れば、また何か言ってくるに違いない。きっちり絶縁状に署名させ、他言すれば命の保証はないと言い聞かせておかなければ。表向きはクラヴィスは、貴族の姫の子ということになっているのに、
そんな女との間に産まれた子であると触れ回られてはかなわぬからな。ただでさえ、クラヴィスの出生をあれこれと噂している者もいるというのに」
吐き捨てるように彼はそう言い、不安な顔をしている皇妃を見た。
「すぐに秘密裏にフングの鉱山町に人を送り、調べさせよう。一旦、私は公領に戻るが、判り次第、この報告を持ってすぐにまた来るから。……そうだな、この事は、むしろ、教皇に言っておいた方が良いだろう。こそこそとしているよりは、身内として、当然の事をしているのだし。お前の悲しみが少しでも和らぐように努力は惜しまんよ」
ジェイドはそう言って、静かに皇妃の肩に手を置いた。
「ありがとう、お兄様。お話してわたくしも少し気持ちが修まりましたわ。これでクラヴィスにもなんとか接してやれます。当分はまだ、笑顔で……とはいかないでしょうけれど。あの子、自身が悪いわけではないのですものね。思えば、まだ幼いうちから母親と引き離されて、その死に目にも会えず、墓参さえもままならない……、そんな辛い思いをしてきた子ですもの、きっと慈悲深い教皇となるでしょう」
諦めから出た言葉ではあったが、その中には、本当にそう思っている部分もある。十年間紛いなりにも母として、クラヴィスに接してきた情が、彼女にそう言わせたのだった。
だが、落ち着き始めた彼女の気持ちとは裏腹に、ジェイド公の心の中には、どす黒い思惑が広がっていくのだった。
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