第二章 聖地、見えない星

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 クラヴィスが、バルコニーから大広間に戻ると、先ほどまで教皇庁の楽士たちがいた場所にスイズ王国の王子リュミエールが、竪琴を手に大人たちに取り囲まれて座っていた。その傍らに彼の父であるスイズ国王が立っている。スイズ国は、教皇庁と密接な関係にあるためクラヴィスでも、王とは何度 か面識くらいはあった。だが、その第三王子に逢うのは初めてである。王子らしい優雅な物腰で微笑んでいる様は、兄セレスタイトのような明るい気品を感じさせるものがあ るとクラヴィスは思った。生まれもってのもの……彼は、それを羨ましく思いながら、リュミエールの演奏を聴くため、そっと壁際に立った。ややあって セレスタイトが戻り、リュミエールの側に駆け寄った。何か声を掛けているのだが、クラヴィスの立っている所からは聞き取れない。リュミエールの顔がパッと明るくなったことから、これから演奏をする彼の為に、励ましの言葉を掛けたのだろう という事が判る。その時、人々のざわめきが、すっと引いた。中座していた教皇が戻ってきたのだった。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんでしたな」
 教皇がそう言い、着座するとリュミエールは、皆にお辞儀をしてから、竪琴の演奏を始めた。

 何と言うことはない無難な小曲だったが、初めて教皇の御前で弾くということもあり、彼は、緊張しながら教本の通りに弾き終えた。それが終わると、拍手と共に、リュミエールに対する賛美の声が幾つも上がった。
“なんてお可愛らしい”
“さすがスイズの王子、気品に満ちていらっしゃいますな”
 リュミエールの見た目を褒める言葉の後ろに、とって付けたように、“まだお小さいのにとてもお上手でしたよ”と付け加えられる。リュミエールは、悲しくて俯いた。宴の席であるから、最初は子どもらしい明るい感じの短い曲の方が良い でしょうと、勧められて選んだ曲だったが、皆の褒め言葉の中に、“上手いとは言っても、やはり子どもの演奏……”というような感じが見て取れたのだった。それが、リュミエールには我慢ならなかった。それでは許されない、と 彼は思った。まだ性格の定まらぬような幼い歳とはいえ、リュミエールは、人を押しのけてまで自分が前に出るような事や、自らが誰かよりも優れていると主張などは決してしない、物静かで穏和な質であった。そんな彼が、たったひとつだけ誰 よりも秀でたいと思っているもの……。

 ふいに、リュミエールの心に響く声がする。その声の主は、彼の最初の竪琴の教師で、彼の亡き母にも教えていた事もあるという年配の女性だった。彼女が、背中から優しく包み込むように、竪琴の指使いを教えてくれた……、リュミエールは 、その温もりをよく覚えている。ただ時折、練習に行き詰まると、険しい顔をして、こう呟くのだった。

『リュミエール様、どうか、竪琴を誰よりも、上手く奏でられるようにおなり下さい……どうか一刻も早く……』

 リュミエールに才能からあるからだけではなく、もっと別の何かを示唆させる言葉の重みを、幼いながらも感じていたリュミエールだった。子どもの指にはまだ辛い難解な曲の練習中に、リュミエールは一度だけ何故、こんなにも竪琴に打ち込まなくてはならないのか? 何故、誰よりも上手くならなければいけないのか? 兄たちは、音楽よりも武術や学問を優先しているのに? と尋ねた事があった。

『スイズは、教皇庁のお膝元にある華やかな文化の国、芸術家は大切に保護されます。国で、いいえ、大陸で一番の竪琴の弾き手の命を奪うようなことは誰にも出来ますまい……』

 そう言った後、竪琴の教師は、リュミエールをしっかりと抱きしめて、何故かはらはらと涙をこぼした。芸術家は大切にされるのだという部分だけしか、幼いリュミエールには意味が判らなかった。彼女の腕の中で、 『一番の竪琴の弾き手になれば、命が長らえるの?』尋ねた。リュミエールは、自分を産んで間もなく亡くなった母の事を思い出していた。母は若くして亡くなったから、 それを哀れんだ教師が、貴方は元気で長く生きなさいという意味でそう言ったのだと解釈するのが、幼い彼には精一杯だった。
 そして、一年ほど前の事、将来はスイズ大学ではなく、教皇庁管轄の音楽院に進みたいと告げた時の、家族の喜びようをリュミエールは、はっきりと覚えている。スイズの王子は大学に進むのが常であったから、父王だけが一瞬、それで良いのかと顔を曇らせたものの、母や兄たちは、手放しでそれを喜んだのだった。
“正妃お母様やお兄様たちが、あんなに喜んでくださったのだもの……教皇の御前で、わたくしが竪琴に秀でているとお認め頂かなくては……こんな小曲だけしか弾けないと思われたくない”
  そんな彼の心中も知らず、父であるスイズ国王は満面の笑顔を見せている。
「では、もう一曲、この良き夜にぴったりの曲を。さあ、リュミエール」
 スイズ国王は息子を促した。予定では、夜の帳に紛れて囁きあう木々の精霊たちのゆったりとした曲を弾くはずになっていた。先ほどの曲よりは長く難しい箇所もあるものの、高音部の多い軽めの雰囲気がするものだった。リュミエールは握りしめていた拳を開くと、深呼吸した後、意を決して違う曲を弾き始めた。
 “運命と英雄”……古くからある戯曲の一節に出てくる曲だった。正義感あふれる若者が、魔物を退治してひとつの国を救うありがちな冒険譚だが、物語のクライマックスで、教皇がその青年の導き手となっているため、この場に相応しいとも言える曲ではあった。
 
 夜明けまでに魔物の住処に辿り着き、その眉間に剣を突き立てねば葬れない……星のない暗い道で方角を見失い、立ち往生す若者に教皇が、道を指し示す。
 
 今ひとたびだけ
 聖地の女王陛下よりお許しを請い
 そなたに我が力を貸し与えよう
 見えるであろう、たとえ全ての星が雲間に消えた夜でも
 燦然と輝く聖地の輝きが!

 
 若者は聖地の輝きを頼りに道を進み、魔物へと辿り着き、日の出の中で勝利を迎える。闇夜のような低く重い音の重なりが、次第に荘厳な夜明けを思わせる音に変わっていく。小鳥のさえずりにも似た小さな音を合間に挟み込みながら。
 この曲を弾きこなせてこそ楽士としては一人前とさえ言われている曲である。人生経験の豊富な者が奏でる深みのある音は、まだなかったかも知れない。だが技術的には完璧 であった。彼が弾き終えた後の、シン……とした一瞬はすぐに破られて、喝采が大広間に響いた。リュミエールはやっと満足そうに微笑むと小さな頭を下げた。
「素晴らしい。ぜひ、またお聴かせ願いたい。来月、大聖堂で一般の民の為に開く演奏会に、ぜひとも我が楽士たちと共にご参加願えませんか?」
 リュミエールとスイズ国王の前に、教皇は自ら進み出て声を掛けた。リュミエールが違う曲を弾いたことに、戸惑っていたスイズ国王だったが、それを聞いてまた笑顔が戻る。
「なんと。 教皇庁の楽士団との競演、身に余る光栄でございます。おお、良かったな、リュミエール。さ、さ、教皇様に御礼を」
 スイズ国王は、リュミエールの背中を押した。
「あの……ありがとうございます」
 頬を紅くしたリュミエールが、躊躇いがちにそう礼を言うと、遠巻きにいた者たちが、一斉に彼らの周りに集まり、口々にリュミエールの演奏を賛美し始めた。それが、ようやく落ち着いた頃を見計らってリュミエールは 、やっと、 「お父様、お部屋に下がらせて頂いてよいでしょうか?」と、父に告げた。時計の時刻は彼が普段、寝室に入る時刻よりも一時間以上は過ぎている。
「おお、そうであったな。教皇様は他の方と談話なさってるようだな……では、そっと下がりなさい。客室の案内は、あの者に頼むといい」
 スイズ国王は、扉の前に直立不動で立っている教皇庁の紋章を肩先に付けた給仕の男を指し示した。
「判りました。では、おやすみないさませ」
 リュミエールはそう挨拶すると、父の元を離れ、扉の前に立っている側仕えに案内を頼んだ。

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