第五章 6

 
 夏場ならば、ほんのりと空が明るくなってくる頃になってようやく、二人は話を切り上げ、眠り始めた。オスカーは、長椅子に凭れて数時間、眠った。目覚めた時、そこにロウフォンの姿はな く、館の者が忙しげに立ち働く物音がしていた。オスカーが、髪を撫で付けながらロウフォンの部屋から出ると、下女がその姿を見つけ、「オスカー様が起きられましたー」とけたたましく叫んだ。それを聞くと執事がすぐに駆けつけた。
「あ……久しぶりだな。いきなり来てすまん。実は、昨夜、遅くに……」
 事情を説明しようとするオスカーに執事は、深々と頭を下げて言った。
「お帰りなさいませ。ロウフォン様からお聞き致しました。お元気そうでなによりでございます」
「うん、お前も変わりないようで良かった。皆も元気か?」
「はい。変わりございません」
「ああ、そうだ、父さんは?」
「先ほど、ホゥヤン領主様の書状を持った使いの者が参りまして、お出掛けになりました」
「ホゥヤン領主から? 何かあったのかな……」
 オスカーは心配そうに呟いた。
「たぶん、良い知らせのように思います。久しぶりに明るいお顔を拝見いたしました。段取りを付けたらすぐに戻ると仰ってました。食事の用意をすぐにさせますのでお召し上がりになってくださいませ」
 執事は嬉しそうに言うと、オスカーに一礼し去って言った。
 
 オスカーが軽い食事を終え、居間でくつろいでいると、ロウフォンが戻って来た。長上衣を脱ぐのももどかしげに、オスカーの名を呼ぶ。
「父さん、ここにいるよ。何かあったんですか? ホゥヤン領主がどうしたんです?」
 居間の扉を開けて、駆け寄ったオスカーに、ロウフォンは笑顔を見せた。
「ここは冷える。居間に入ろう。良い知らせだ」
 オスカーの背中を押して、居間に逆戻りさせたロウフォンは、部屋に入るなりホッとした様子で、きつく詰めた襟元を緩めた。
「今朝方届いた書状によると、いつまでもクゥアン領主と仲違いしていては領内の行く末が案じられるので、和解をしたいと。年明けからは、議会をきちんと開けるように心を入れ替えたいというような事がしたためてあってな」
「素直に受け取っても良いんですか?」
 話が上手すぎるように思え、オスカーはそう尋ねた。
「うむ。私も急にどうした風の吹き回しかと思ったが。もしや、お前が視察に来たことがどこからか洩れているのではないか? ジュリアス王が直々に動き出したと知ったのでは?」
「ホゥヤンの手前の駐屯地から、ここに来る道中に見られたかな……二つほどそれなりの大きさの町を通ったから」
「お前の赤毛は目立つからな。そうかも知れん。それで、和解の第一歩に、一席設けてくれないかと言われた」
「酒宴でも?」
「いや。五元盤だ」
 ロウフォンは、小さく笑って答えた。
「え? 五元盤……ですか?」
 五元盤は、五つに区切られた盤の上で、駒を取り合うクゥアンに古くから伝わる遊びである。クゥアンで生まれ育ったものは、子どもの頃からその複雑な駒の動きを自然に身につけて競い合う。五元盤を打つことだけを生業にしている者もいるほど、クゥアンでは大人の娯楽として盛んである。
「ホゥヤン領主は、クゥアンに留学されていた事があって、五元盤を覚えたらしい。なかなかの腕前で、クゥアン領主とは互角。なにかにつけて対立していた二人のたったひとつの接点が、五元盤と言っても良いくらいだ。ホゥヤンでは、五元盤を上手く打てる者は数少ないからな。私も、一応、やり方くらいは知っているが、とてもお相手が出来るまではいかん」
「その五元盤の席を、父さんに設けよと?」
「ああ。泉の館を貸してはくれぬかと。あそこは両領主の館の丁度、中程の所にあるからな。どちらかの館でするとなると、またいろいろと問題もあるだろうから」
「そうですね……。泉の館か……懐かしいな」
 泉の館は、ロウフォン家の別宅である。都内にあり本宅からも近いが、鬱蒼とした林に囲まれ、小さな泉を敷地内に持つ静かな館である。体調を崩していた母親が、長らく養生し、そのまま他界してしまった場所でもあるその館は、オスカーにとっては、思い出の詰まった小箱のような印象のある場所だった。
「お互い、数名の供だけを連れて、泉の館で五元盤をうちながら腹を割って話そうということになっていてな。これで事態が良い方向に向かってくれれば……。明日はなんとしても良い一日になって欲しいものだ」
「明日? 明日なんですか? それはまた本当に急すぎやしませんか?」
「まったくな。二人の仲が決定的に悪くなって半年以上になる。その間、一回も五元盤を打ってらっしゃらなかったから、早く打ちたいんだろう。この話を、すぐにクゥアン領主殿にも、伝えに行ったのだが、五元盤と聞いてお受け下さった」
「ジュリアス様でさえ名人と打つ前日は、そわそわとして落ち着かない時もあるくらいですからね」
「オスカー。クゥアンに戻るのは、明後日にしてくれるか? 明日の様子次第で、ジュリアス王にする報告もまた違ったものになるかもしれぬ。ここ最近の領政についての資料を、私の部屋に用意しよう。帰宅してもゆっくり出来んが、せめて今宵はお前の好きなものでも作らせよう。タトゥの煮物はどうだ? 良質のものはクゥアンにはないだろう」
 タトゥは、ホゥヤンで豊富に採れる大ぶりの豆である。それを煮た物はホゥヤンの代表的な家庭料理であった。ロウフォンがそういうと、オスカーは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「父さん、今だから言いますけどね、俺は、タトゥは嫌いなんだ」
「なんだと?」
「タトゥさえ食べていれば間違いないと言って、毎食、必ずタトゥ料理が出る。食べ過ぎてもう見るのも嫌になったのは十歳の頃だ。父さんは、好き嫌いを絶対に許さなかったから残すことはしなかったけれど」
「いい歳をして今更何を言ってる。ホゥヤン人がタトゥを食わないでどうする。よし。とびきり美味いタトゥ料理を食わせてやる。お前がクゥアンに行ってから雇った料理人は、なかなか腕が良くてな」
 ロウフォンは、オスカーが口を尖らせているのを無視して立ち上がると、笑いながら執事を呼んだ。そして「今宵はオスカーの為に、タトゥを山盛り料理するように伝えてくれ。私は、泉の館に不備はないか見に行ってくる。夕刻までには戻る」と告げ去っていった。
「承知いたしました」と一旦答えた執事は、顔を引きつらせているオスカーに向き直った。そして「もちろん違うものもご用意致しますよ。ちゃんとしたお食事をロウフォン様が取って下さるのは何日ぶりでしょう。嬉しゅうございます」と小さく言った。

 翌朝、泉の館に出向こうとしているロウフォンに、オスカーは声をかけた。
「俺も一緒に行ってもいいですか? あ、もちろん、両領主殿の目前には出ない。奥の間に控えていますから」
「そうだな……いいだろう。彼処はお前にとっても懐かしい場所だからな。母さんの部屋は昔のままにしてある。皆がよく手入れをしていくれているので綺麗なままだ」
「そこでこの資料に目を通してしまうよ」
 オスカーは、ロウフォンから借りてある分厚い帳簿を持ち上げた。
「早く支度をしろ」
 ロウフォンに急かされたオスカーが、二階にある私室で支度をし戻ってくると、既にロウフォンは馬の用意を整えて待っていた。
「お前の馬は良い馬だな」
「ええ。俺の所属している第一騎士団の馬は、全部、ホゥヤン産ですよ。ジュリアス様のご配慮で優先的に回して頂いてるんです」
 オスカーが何気なく言った言葉に、ロウフォンの顔が曇った。
「領政が安定すれば、もっと良い馬を育てられる。以前は、他国とは比べ物にならないほど良質の馬を多く産出していたのだが。クゥアンへの買い上げは、ジュリアス王の祖父の時代に比べれば、三分の一程度に減ってしまった……」
「父さん……。今のホゥヤンの状況については俺が責任持って、ジュリアス様に伝えますから。きっと来年には良い方に行きますから」
 オスカーが、そう言うとロウフォンは頷いた。その時、彼の視線にオスカーの剣が目に入った。
「お前、剣を新調したのか? あの剣はどうした?」
 あの剣とは、オスカーがクゥアンに行く時に持参した剣である。鍔の部分に馬と盾と剣が合わさった家紋が入ったもので、ロウフォン家の主とその長子は同じ物を持つ事になっている。
「研ぎに出しています。鍔に少し傷も入ってしまって修理に少し時間がかかっているんです。この剣は、騎士になった時にジュリアス様に賜ったもので、いつもは式典の時だけ使用しています」
「どうりでお前が持つにしては、華奢な剣だと思った。視察に出向くのにそんな物を持って、何かあったらどうする?」
「俺には少し軽い剣ですが、なかなかこれも良いものですよ。騎士の中には、こちらを常用している者も多い。それに俺は、あの剣以外、これしか持ってないので」
「呆れたやつだ。クゥアンの騎士ともあろう者が、剣を二振りしか持っていないとは」
「気に入ったものになかなか出会えないんですよ」
「泉の館にあるものの中から、好みのものがあれば持って行くがいい」
「はい」
 泉の館には、代々のロウフォン家の当主が使ったり、収集した剣や盾の類が保管してあった。館の居間には特に古い物や値打ちのある物が壁一面に飾られている。オスカーは、子どもの頃、悪戯にその一つを手に取って、振り回しているところを見つかりこっぴどく叱られた事を思い出した。
「何をぼうっとしている。行くぞ」
 ロウフォンはオスカーにそう言うと馬に跨り館の正門へ向かう。オスカーも慌てて後に続く。もちろんクゥアン城とは比べられないが、ロウフォンの館もかなりの敷地を持つ立派なものである。石畳の道をゆったりと馬を歩かせて二人は正門に出た。門番が見送る中、ロウフォンとオスカーは、泉の館へと急いだ。彼らが供に出掛けたのを見張っている者に気づかずに……。

「赤毛の息子も一緒に向かったようだ。よし。泉の館へ向かうよう、皆に伝えてくれ。俺はこのまま二人をつけるから」
 男は、もう一人の者にそう伝えると馬に飛び乗った。馬の嘶きに、門番が気づき、「何か用か?」と大声で尋ねた。チッ……と男は舌打ちをして門番の方に駆け寄った。
「良い馬なんで、お館様に買い上げて頂けねぇかと思いましてね」
 見つかった時の為に野良着を着ていたのは正解だったな……と男は思いながらそう答えた。
「ふうむ。この程度の馬なら買い上げは無理だな。亡くなった奥様のご実家は、ホゥヤンでも一、二を争うほどの大きな牧場なんだぞ。名馬ならもう沢山お持ちだ。さあ、とっとと行った、行った」
 門番に追い払われて、男はとぼとぼと馬を歩かせる。
“この館の連中は、命拾いをしたな……。オスカーとやらが、泉の館に供に行ったのなら、二手に分かれる手間は省けたわけだから……。帰らぬ主人をいつまでもそこで待っていろ……”
 そう思いながら男は、馬の尻にひとつ鞭を打った。

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