| 「ううん、それほどでも。この本、昨日、蚤の市で買ったんだよ。鞄に入れたままだったから」
 オリヴィエは、小さな青い布貼りの本を見せながら返事した。ミレーヌは、それを覗き込む。愛を語る美しい仏蘭西語が、目に飛び込んでくる。
 
 「まあ、詩集ね?」
 「うん。ここを見て」
 オリヴィエは、ページを戻らせて捲った。中表紙に、ブルーブラックのインクで、『オリヴィエへ クリスマスに愛を込めて』と書かれていた。流れるような優美な筆跡である。
 
 「何かの縁かなあと思って、つい買っちゃったんだよ。割と新しくて表紙の布地も綺麗だったし」
 「なるほど。誰かのクリスマスプレゼントだったんだね」
 アランも、オリヴィエの側に立ち、小さな本を見つめる。
 「詩集の贈り物なんてインテリっぽくてロマンチックねえ……、でも、その本を手放したってことは、渡せなかったか、振られちゃったかしら……ああ、ごめんなさい、
せっかくの本なのに、縁起でもないわね。それに、読書のお邪魔しちゃったわね」
 「ううん。いいんだよ。そんなに真剣に読む内容でもないから」
 
 オリヴィエは、パラパラとページを捲りながら言った。真ん中あたりに何か挟んである。何か挟まっているのは、昨日、その本を買う時にパッと見て気づいていたが、栞代わりに使った広告のようだったので、気にも留めなかったのだ。オリヴィエは
、それを抜き、自分が読んだところに挟み直そうとした。
 
 “え?”
 その広告に書かれた文字が、オリヴィエにはっきりと見えた。
 「麻婆豆腐……?」
 と、オリヴィエは呟いた。
 「何だい?」
 とアランが振り返った。
 「紅焼魚翅……!」
 また、オリヴィエが呟いた。
 「何て言ったの?」
 ミレーヌは、オリヴィエの呟いた呪文のような言葉に立ち止まる。
 オリヴィエは、興奮した様子で、畳まれていた紙片を開けた。
 「やっぱりだ!」
 「どうしたっていうのよ? オリヴィエ?」
 心配そうに覗き込んだ、アランとミレーヌに、オリヴィエは、その広告を見せた。
 「これ、上海にある海風飯店っていう高級中華料理店のチラシなんだよ! クリスマスの特別コースのご案内だよ! さっき呟いてたのは料理の名前なんだ」
 「ホン・シャオ……なんとかってヤツ?」
 「それはフカヒレのスープ。庶民には縁のない高級スープのこと」
 「へぇ……って、どうして上海の広告が、その本の中に?」
 ミレーヌの質問にオリヴィエは、知らないとばかりに首を竦めた。
 
 「簡単なことさ。その本の持ち主が、上海に旅行していたか、向こうに住んでいて戻ってきたか……そんなとこだろう。ほら、いつだったか蚤の市で手に入れた古いタンスに敷いてあった古新聞が、僕らの故郷のマルセイユのもので、二人して驚いたことがあっただろう?」
 アランの方は、いたって平然とそう言った。
 「そんなこともあったわね。でも、オリヴィエへ……という署名の入った本を、オリヴィエが手に取ったのは、それ以上にすごい偶然よ。 その上、中に上海に関係するものが挟まれていたなんて」
 ミレーヌの方は、感激したように言う。
 「そうだね。ワタシもそう思うよ」
 オリヴィエは、本を、不思議そうに回しながら多方向から眺めている。
 「ねえ、元の持ち主が、もしかして上海に行ったことがある人なら、いいお友達になれるんじゃなくて?」
 ミレーヌは良いことを思いついたとばかりに、オリヴィエからその本を奪い、調べ始めた。
 「蔵書票か名前でも書いてれば……と思ったんだけど……何もないわねえ」
 ガッカリした様子で、ミレーヌは本をテーブルに置いた。
 「ん? ちょっと貸して」
 今度はアランが、本を手に取り、閉じたまま小口の角を指さした。
 「ほら、ここ。星印の中にAの文字の印があるよ。アルフォンシア書房のマークじゃないかな?」
 「本屋さんの印?」
 オリヴィエは、そのマークを覗き込んだ。
 「うん。ルピック街にある古本屋さ。ミレーヌ、覚えてないかい? この店を譲り受けた時、前の持ち主に頼まれて、整理の為に本を持ち込んだことがあっただろう?」
 アランは、ミレーヌの肩をポンポンと叩いた。
 「ええっと……マークまで覚えてないけど、台車で運んだことや本屋の雰囲気は覚えてるわ」
 「とにかく、その本は、蚤の市で売られる前に、一度はその書店を通過したことになる。何か判るかも知れないよ。行ってみたらどうだい?」
 「そうね。リュミエールと一緒に行ってみれば? そんなに遠くないし」
 ミレーヌがそう言う間に、アランの方は、その店の場所と簡単な地図を書き記している。
 「うん……」
 二人とも妙に熱心……、そう思いながらオリヴィエは、曖昧な返事をした。
 
 「ふふ、おせっかいね。でも、もし上海と関係のあった人なら、こんな偶然に、話しもはずむかもと思って。貴方もリュミエールも、まだまだこっちに知り合いも友だちも少ないでしょう?」
 ミレーヌが、優しげに微笑んだ。こういう所を見せられると、十歳の年の差は伊達ではないと思い知らされるオリヴィエだった。
 アランから手渡されたアルフォンシア書房の地図を、本に挟み込むと、オリヴィエは、「ありがとう。二人とも。今度のお休みの日にでも行ってみるよ」と言って残りの珈琲を飲み干した。
 
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