◎夏の章◎
「約束が違うじゃないかっ」
とオスカーが血相を変えて水夢骨董堂に飛び込んで来た。
「騒々しい人ですね、どうかいたしましたか?」
とリュミエールに澄ました顔で、ゆったりと言われるとオスカーは出鼻を挫かれたらしく、怒りに震えながらも一応は、声のトーンを落として言った。「オリヴィエはいるか?」
「配達に行っていませんよ。どうですか茉莉花茶でも一杯、出涸らしですけれど」
「いらんっ、それより先日の壺の件、直接、蓬莱国賓館のオーナーに売り込みに行ったそうだなっ、おかげでこっちは大恥をかかされたぜ」「あのオーナーは、百五十ドル払ってくれましたよ。おまけにホテルのプールのタダ券まで戴きました。貴方に渡したら五十ドルの手数料のみ、百ドルもピンハネする気だったんですね、あこぎな人ですね、貴方も」
リュミエールはオスカーを罵った。「な、何言ってるんだい、一人につき五十ドル払うつもりだったんだぜ」
「それでも何もしない貴方にも五十ドル入るわけですね、ふん、よくもわたくしたちをあんな男色ヤローのところに行かせましたね、知らないとは言わせませんよ」「べ、別にそういう魂胆があったワケではないぜ。でも壺を手に入れたと言う事は、どっちかが、お楽しみだったんだろう? 伯爵はオリヴィエ好みと見たんだが」
「わたくしたちには、その気はまったくないと何度言えばわかるんですか? そういう気があるのは貴方の方でしょう? あの蓬莱国賓館のオーナーとは随分親しいそうですね、あんなご立派な紳士が【受】とは、人は見かけによりませんね」「何っ、失礼な。ジュリアス様をそんな目で見るな」
「そうそう、そんなお名前でしたね、あのオーナーのお名前。まぁなんにせよ、以後、こういうお仕事はお断りいたしますからね」
リュミエールはキッとオスカーを睨み付けた。
「わかったよ……しかし……怒った顔はまた格別綺麗だな、普段の優しげな瞳が豹変するサマはゾクゾクするよ」
とオスカーは、ついとっておきの声で呟きながら、リュミエールに触れようとした。「もう我慢なりませんっ」
と言うや早いがリュミエールはオスカーの襟首掴んで持ち上げた。「よ、よせっ」
「とりゃ〜〜っ」
オスカーの体はリュミエールの背中で一回転し、宙に放り投げられた。そして、水夢骨董堂の戸にぶち当たり、その拍子に木のドアにはめ込まれた磨りガラスが砕け散る。「出た〜っ伝家の宝刀・一本背負い〜、柔能く剛を制すっ」
と叫んだのは、奥の部屋に隠れて成り行きを見ていたオリヴィエである。「オリヴィエ、そんなとこにいつまでも隠れてないで出てらっしゃい。オスカーを投げ飛ばしたら汗をかきました。蓬莱国賓館のプールのタダ券、使いにまいりましょう」
「だけどぉ〜オスカーのびてるし、ガラスも割れちゃったし……」
オリヴィエは困った様子でウロウロしている。リュミエールはオスカーの頬を軽く叩いて気を付かせると有無を言わさぬ態度で言った。「わたくしたちが帰ってくるまで店番しているんですよ、割れたガラスの掃除と注文もしておいて下さいね」
「う……あ、ああ」
オスカーはかろうじて返事した。「色男も、リュミエールにかかっちゃ台無しだね、アンタだってリュミエールと互角に戦えるくらい強いくせに……そんなにリュミエールが好き? ジュリアスとかいうあのオーナーも好きなんだろ?」
オリヴィエはオスカーを起こしてやりながら聞いた。「俺は恋多き男なんだ……う、いたた」
「バカだねぇ〜」
「何をゴチャゴチャ言ってるんですか? 行かないならわたくし一人でまいりますよ」
「あ、待って、行く、行くってばさ〜」◆◇◆
「リュミエール……超ハイソな蓬莱国賓館のプールで泳ぐのに、フンドシつぅーのは何だかねぇ」
「そうでしょうか? 貴方こそいくら流行かなんだか知りませんけど、そんな横縞の下着みたいな水着、泳ぎにくいんじゃありませんか?」
オリヴィエとリュミエールはウキウキしながらプールサイドに飛び出す。「ひー暑い〜リュミちゃん、こら相当焼けちゃうよねぇ〜あ、あら? いない、あっ、もうあんなとこに〜」
リュミエールは第三コースからプールに向かって飛び込んだ。引き締まった体が飛魚のように一瞬湾曲すると、今度は真っ直ぐに水の中に突き刺さって消えてゆく。そしてガンガンとクロールで泳ぐリュミエール。「リュミエールってば、泳ぎが得意だもんね〜見事なもんだ」
オリヴィエは感心しながら微笑んだのだが……。
リュミエールは水夢骨董堂の店先で怒っている。着替えもそこそこに蓬莱国賓館から飛び出して来たので、髪からは滴が落ち、リュミエールの服のあちこちを濡らしている。
「もうわたくし、頭に来ました」
リュミエールは、長い髪を乱暴にゴシゴシと拭いた。
「あ、そんなにゴシゴシ拭いたら傷むよ、アンタの髪って高く売れるんだから大事にしてよ、せっかくそこまでのばしたのに〜。それにさぁ、仕方ないよ〜あのプール、飛び込み禁止なんだもん〜」
「それは仕方ないとしてもどうしてわたくしの泳ぎが他の方の迷惑なんですかっ」
「メイワク……だと思うけど……アンタねぇ、あそこは優雅に水遊びするためのプールなんだもの〜、誰がクロールでタイム取りするような速さで立て続けに五十本も泳ぐよ〜」
「水につかるだけなら風呂に入ればいいじゃありませんか、泳ぐためのプールでしょう」「そりゃそーだけどさぁ。それにやっぱ、そのケツ丸出しのフンドシもさぁ」
「このフンドシ姿のどこが猥褻なんですっ、日本男子の凛々しさのわからぬ西洋人がっ」「アンタのどこにニッポンダンジの血が入ってるんだよ〜」
「わたくしを育てて下さった先生は立派な日本男子ですっ」
「せっかくのタダ券なのに追い出されちゃってさ。もう〜リュミエールのバカ〜」「じゃ貴方だけもう一度行けばいいでしょう、出入り禁止はわたくしだけなんですから。チンタラと茹だったクラゲみたいに浮いてりゃいいんです」
リュミエールは長い髪をうっとうしげに束ねると、革ひもで縛り付けた。「ねぇ……リュミエール、アンタ、この暑さでも汗ひとつかかないで涼しい顔してるけど、本当は暑くて暑くてカリカリしてるんじゃないの〜? ちょーっち最近カゲキな気が……」
とその時、外の路地からたどたどしい上海語で「このアタリにスイムコットウドーはないか?」と尋ねている声が聞こえた。
「ふふふ、バレましたか〜わたくし、熱がこもるタチなんですよ〜適当に発散させませんとね……」
「げ、やば、あの声はエルンスト伯爵だ〜、あれ以来つきまとわれてるんだよ〜、お願いリュミエール、いないって言って」
「寝たのが嘘とバレたんですか?」
「いや、やったと思い込んでるらしいの、で、良かったらしいと思い込んでるのよう〜」
オリヴィエは奥の部屋に慌てて逃げた。それと同時に伯爵が店に入って来た。「おお、やはりここでしたか、探しましたよ、オリヴィエ君はいますか?」
仕事帰りなのかエルンスト伯爵はキッチリとしたスーツ姿、手にした仏蘭西銀行の名前入りの茶封筒がいかにもビジネスマンという感じである。
「いいえ」
「待たせてもらってよろしいかな?」
「困ります……いつ戻るか知れません……もう帰らないかも……」
「どういう事です?」「伯爵……大きな声では言えないのですが……オリヴィエは病気でして、療養のために入院したのです……」
「えっ、彼が? おお、それならばなおさら私が面倒を見たいのだが、どこに入院しているのですか?」
「それは……申せません……人に知られたくないとっても恥ずかしい病気なんですから」 とリュミエールは顔を赤らめて見せた。「えっ?」
「タチの悪い野鶏(ヤーチー)から病気を移されましてね……ああ、伯爵にも移したかも知れないと申しまして、貴方に会わせる顔がないと嘆いておりましたが、大丈夫でしたか?」
伯爵は思わず自分の股間を見て、顔を引きつらせた。
「その上……、伯爵との激しい一夜のせいで、持病のイボ痔も悪化して……ああ、おいたわしいお兄さま……」
リュミエールをそっと目頭を押さえる。
「どうぞ兄をそっとしてやって下さいまし……病気持ちのイボ痔の男と付き合っているという噂が流れれば、貴方様の体面にもかかわります、そっと身を隠した兄の気持ちをどうぞお察し下さいませ」
「そ、そうでしたか……私はてっきりオリヴィエ君が私から逃げ回っていると……、わかりました、私も仏蘭西銀行副頭取の身、ここは潔くあきらめましょう。これはお見舞いという事で治療費の足しにして下さい」
伯爵は上着のポケットから札入れを出すと、十ドルをリュミエールに手渡した。「恐れ入ります、兄には必ず伯爵のご厚意を伝えます」
リュミエールは深々と頭を下げた。伯爵が行ってしまうと、奥の部屋から地響きのような低い声がした。「誰が、恥ずかしい病気持ちのイボ痔だってぇぇ〜? リュミエールぅぅ〜、いっぺん黄浦江に沈めてやろうか〜」
注
◆野鶏(ヤーチー) 中國人のあまり高級でない娼婦
−夏の章 終−
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