窓の外、夜半から降り出した雨は朝になっても止まない。
午後になっても雨足は弱まる気配がない。くすんだ紅い中國風のラティスをはめた窓から見る通りも、いつもとは別世界のようだ。用もないのにいつまでもそこにいる中國人たちも、埃にまみれた路も今日はすっかり雨が洗ってくれたから。街中がシャワーを浴びたように綺麗になる気がして、ワタシは、こんな雨の日が好きだった。こんな雨では客なんか来ようはずもない。ワタシは茉莉花茶をすすりながら水夢大人の事を思い出していた。あの日もこんな雨だったから……。
◆◇◆
「酷い雨だな……」
背後から声をかけたのは、この水夢骨董堂の主で、初老の日本人。本当の名前はあるんだけれど水夢大人(シュイモンターレン)とワタシは呼んでいた。荷物の配達の仕事をしていた時に、この店に何回か来て、親しくなったのだった。「もう少しここにいてもいい?」
ワタシは大人にそう言うと、また窓の外を見つめた。「どうした? 何かあったか?」
水夢大人はお茶を勧めながら、心配そうにワタシの顔を覗いた。「うん……仕事、クビになっちゃったよ」
「あの苦力の仕事か? ははは、お前さんの細腕じゃあ半年もよく持った方だ」
「四馬路に美楽園って店があるでしょ? そこのオーナーの差し金なんだ」美楽園はボーイを美形で揃えているので有名な倶楽部だった。ワタシはそこのオーナーに働かないかと誘われていた。
「断ったら、いろいろ裏で手を回したってワケ」「いやか? あの店で働くの」
「ボーイだけならいいよ、けどあの店には二階があってさ……」
「知ってるよ…儂は若い頃、よくあそこで遊んだんでな」
「えっ?」
「もちろん先代のオーナーの時だがな、やってる事は今と同じさ、可愛いボーイがたくさんいたな」水夢大人はそう言うと、ワタシの前の茶器の蓋を開けた。茉莉花茶の匂いが雨で湿った店内に一気に立ちこめる。一瞬、それに咽せてワタシは返事を返せなかった。
「儂の事を軽蔑するか?」
「ううん……昔の事だし……もしかして今も?」
肺の中を満たした茉莉花の匂いを吐き出すように、ワタシは深呼吸すると、ちょっと意地悪く大人を見た。「もう十歳ほど若かったらな、お前さんなんざ、放っておかないんだが」
水夢大人はそう言ってワタシの肩に手を置いた。ワタシは、大人の手の上に自分の手を重ねた。日雇いの仕事はきつかった。でもその仕事さえもうない。仏蘭西に行く為にはてっとり早く美楽園でボーイをしたほうが……。もしくはいっそ、親切にしてくれるこの老人と。「寝てもいい……仏蘭西行きの旅費をくれるなら」
「それはダメだ、お前さんの夢を汚したくない、体を売った金で夢を買っても嬉しくなかろう、それに一度許せば後は墜ちてゆくばかり……それはお前さんが一番よく知っているだろう、そういう所から逃げてきたんじゃなかったかね」「うん……ごめん、大人」
ワタシは少し恥ずかしくなって俯いた。「かまわんよ、美楽園の豚野郎にお前さんをくれてやる位なら、儂は男宝即立感福丸を飲んででも頑張るがな」
大人はそう言って笑った。「そうだ、オリヴィエ、儂が死んだらこの店をお前さんにやるよ……借地だが、この店の中のものは全部お前さんのものだ」
ふと水夢大人は真面目な顔をしてそう言った。「いらないよー、こんなガラクタ〜」
ワタシはわざとおどけて言った。「日本から上海に流れて来て、三十年ほどになるかな。外灘の小さい商社で働いて金を貯め、この店を持ったはいいが、酒と美楽園のボーイに入れあげてしまってな……女房には逃げられるし、そのボーイには店の金を持って逃げられるし、散々な目に遭ったな。自業自得だがな」
「ふうん。悪いヤツだね、そのボーイって。でも、そんなに入れ込む程いい男だったの?」「そうさなぁ、お前さんよりも少しな。まぁ、それで儂は、ほとんど無一文になってしまい、なんとか傾きかけたこの店を立て直そうと頑張ったんだ。初めは酔夢骨董堂という名前だったのを水夢に変えてな、酒は一生飲まないと誓ってな」
「あーそれで、ドアのとこの水って字だけがちょっと新しいんだね」
「儂は酔夢、という言葉が好きでな、いかにも心地よさそうじゃないか。酒も好きでな、自分の店には必ず酔夢なにがしとつけようと思っていたんだ。結局、酒のせいで人生を踏み外したようなものだし、せっかくだから、お前さんはこの水夢のままで店を継いでくれんか?」「水夢って、なんだか叶えられない夢って感じ〜、儚げでさ」
「そうでもないさぁね、蕩々と流るる水に想いを馳せる……川の流れはやがて大海に至る、海の向こうにはお前さんの辿り着きたい場所があるじゃないか」「わかったってば、大人が死んだらワタシがこの店、貰ったげるよ、でも仏蘭西行きの旅費が貯まるまでだからね。だけど当分死ぬんじゃないよ、ね」
水夢大人は、それから間もなく本当に死んでしまった。ずっと医者通いをしてたらしいからワタシに店の話をした時には、もう自分の死期を知っていたのかもしれない。
ワタシは、引き出しからこっそり一枚の写真を取り出した。水夢大人が、死んでからこの店の整理をしていた時に出てきたものだ。大人が愛して裏切られた男の写真。ゆるくウェーブのかかった髪をオレンジ色のハンケチでしばり、気取ったつもりなのか鼻眼鏡をかけた整った顔立ちの、陽気そうな男が映っていた。
(ふん、大人ったら。どこがワタシよかいい男なんだか……)
「誰の写真ですか?」
ふと頭の上からリュミエールの声がした。リュミエールは、写真をワタシの手から取り上げた。「誰ですか? ちょっとオリヴィエに似てますね……」
「ね、ね、この男とワタシとどっちがいい男と思う?」
「そりゃ、オリヴィエでしょう。わたくしオリヴィエほどいい男は知りませんよ」リュミエールはにっこり微笑んだ。こういう時のリュミエールは本当に何ていうか、カワイイ。
「というわけで、オリヴィエ、ちょっと市場までここに書いてあるものを買いに行って下さいね」
リュミエールはメモと傘をワタシに押しつけて言った。「あ、そういうコトか。まったく〜この豪雨の中、買い物に行けなんて〜」
ワタシはブツブツ言いながら、外に出た。「巷に雨が降る如く我が心にも雨が降る…ってね、あ〜らしくないったら」
ワタシは広げた傘を叩く雨音にちょっとセンチになった。磨りガラスの水夢骨董堂の文字の水滴を指で拭うと、雨の中を一気に駆け出した。
−END−
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