外伝其の壱 オスカー回想録 What a wonderful world.



 目が醒めると、もうあたりはすっかり明るくなっていた。俺の隣に中國人の女が裸で眠り込んでいた。見覚えのない部屋……前の夜、ちょっとばかり金が入ったのでしこたま飲み、その後、四馬路の路地裏で野鶏を買い……その女の部屋に転がり込んだのだった。

 阿片のすえた甘い匂いが、部屋に漂っていて俺は気分が悪くなり、女の寝顔に溜息を付きながら部屋を出た。日差しはようやく穏やかになり、空には美しい鰯雲が出ていた。

 俺の横を、見知らぬ苦力が木箱を担いで走って行った。俺は、苦力を見る度に、あの男……オリヴィエを思い出す、アイツはあれから死んではいないかと。半年たった今でもアイツの目が俺の心を刺す。

 俺は、四馬路から南京路に抜けようと、路地に入り北に向かって歩いた。このあたりは南京路や四馬路の大通りからあぶれた小さな店や会社が多い、立派な屋敷もあれば、目も当てられないようなあばら屋もある。妙に活気のある裏通りを、俺は通り抜けようとした。

 【水夢骨董堂】と磨りガラスに書かれた小さな店の前を通り過ぎようとした俺は、その窓の赤い中國風ラティスの向こうに、あのオリヴィエの横顔を見た。とっさに俺は店のドアを開け、叫んでいた。

「よう、お前、生きてたのか?」
「アンタ……あの嫌味な亜米利加人……確か、オスカー?」

 オリヴィエは、もうあの時のように汚れたシャツ姿ではなかった、白い綿のざっくりしたチャイナ服を着ているだけでなのにまばゆいばかりの美しさだ。

「お前……この店の売り子になったんだな、よかったな」
 俺は心の底から言った。
「売り子じゃないんだ、ここはワタシの店なんだよ、いろいろあって」
 オリヴィエがそう答えた時、奥のカーテンが開いた。

「お客様?」
 美しい女が、こちらを見てニッコリと微笑んだ。青みがかった銀色の髪、優しげな瞳、俺は、とっさに近づき手にキスをしたい衝動に駆られたが思い直した。

「結婚したのか……」
「バカ、リュミエールは男だよ、よくご覧、こんなデカイ女、滅多にいるもんか」
「え? あ……あ、ああ、失礼」
 俺は。オリヴィエとリュミエールという男を代わる代わる眺め、その美しさに溜息をついた。

「それにしても、どうして苦力をしなくちゃならない程、貧乏だったのに店を開けていられるんだ」
 俺は、やはりオリヴィエにパトロンがついたのだなと思った。もしくは、もう一方のこの上品そうなリュミエールという男がパトロンなのか?……。

「苦力を、していた頃、配達で時々、この店に来てたんだ。この店の主は、日本人の爺さんでね、アタシを随分可愛がってくれた。それで死に間際、遺言を残したんだよ、自分は上海ゴロの成れの果てで、とっくに家族もいないし、店をやるってね。ただし借地だけどね。リュミエールはワタシとは兄弟みたいなもんだよ、一緒の孤児院で育ったんだ」

 オリヴィエは壺を磨く手を休めずに言った。
「二人とも……孤児だったのか、そんな風には見えないな」
 特にリュミエールの方はちょっとした動作も優雅でどう見ても貴族の子弟といった雰囲気である。

「リュミエールは捨て子だけど貴族の子だしねー。ワタシだって朧気な記憶によると父親は貴族みたいだったよ、五つくらいで捨てられたからよく覚えてないけどさ」

「貴族がとうして捨て子なんかするんだ?」
「亜米利加人は単純だね。貴族だから世に憚る事情ってものがあるんじゃないの? ワタシもリュミエールも生まれてきちゃ迷惑な子だったんじゃないの」
 オリヴィエは少し怒ったようにそう言うと、壺を磨いていた布を俺に投げてよこした。

「暇なら手伝って。長い間、壺を掃除してなかったから埃だらけなんだよ。明日、英吉利人の金持ちが見に来る事になってるんだ」
 俺は渋々、布を受け取り、オリヴィエの横に腰掛けて同じように壺を磨き始めた。

 俺は、オリヴィエの誘いに乗せられて、上海に来た経緯や会社を辞めた事、あげくは昨日、野鶏(ヤーチー/娼婦)と遊んだ事まで喋ってしまった。 オリヴィエは俺をからかいながら、自分たちには仏蘭西に行く夢があるとか、育った孤児院は虹口の日本人租界にあるとか、そういう事を話した。リュミエールはただ微笑みながら、時々、「まぁ」とか「ええ」とか相づちを打った。

「どうしてアンタらは、なんて言うかそんなヘンな喋り方なんだい? 一方は女言葉が入ってるし、一方はバカ丁寧ときてる」

「ヘンで悪かったねー、ワタシはさ、五つで捨てられて、男娼窟の親父に拾われたんだよ、ずっとそいつの豪華な屋敷の中で、外に出して貰えずに女ばっかりの中で、ん〜厳密に言えば、男も混じってたとは思うけど……誰が男で誰が女かわかんないよーな中で、チヤホヤ育てられたのさ。でこんな話し方なんだ。仏蘭西語や日本語はちゃんと話せるけど、中國語は直らないんだよ、なんか意識して直そうとすると喋りにくいしさ。それでね、十歳の時だったかな、酔っぱらった親方が、これからはお前に稼いでもらうぞ、俺の目に狂いはなかったなって言ってさ、覆い被さって来て。ワタシったらさ〜パンツ一枚で逃げ出したんだよ、夏でよかった。ははは」

 オリヴィエは暗い過去のはずなのに、笑いながらそう言った。

「それから、かっぱらいなんかをしながら街から逃げ出して虹口まで辿り着き、孤児院の庭の蜜柑を取ろうとして木に登ったはいいけど、降りられなくてさぁ、そのままそこでお世話になったわけよ」
「あの時のオリヴィエったら……ボロボロで裸足でしょう、猿がいるってそりゃ大騒ぎだったんですよ」

 リュミエールが横から笑いながら説明する。

「そういうけどね、逃げ出した時は、夏だから良かったけど、だんだん寒くなってくるしさ、そこいらの洗濯物から適当に拝借したものだってボロばっかだし、腹は減るしさ〜」

 悲惨な話なのに可笑しくなって俺は笑ってしまった。

「すまん……で、リュミエールは?」
 俺は今度はリュミエールに尋ねた。

「わたくしは、生まれたての頃に孤児院の前に捨てられていたんです。たいそう高級なものを身につけて白い籐の籠に入れてあったんですって。カードに名前が書いてあったそうです」
「でもそれだけじゃ貴族の子とは断定できないぜ」
「後日談があるんだよ〜」

 オリヴィエはそう言うと、リュミエールは頷いて話しを続けた。

「ある仏蘭西貴族のご令嬢が、なんの身分もない商社の青年と恋仲になり、親が気づいて二人を引き離した時には、既にご令嬢のお腹には子どもがいて処分もままならぬ月数だったとか。結局、赤ちゃんは死産という事で何事もなかったかのように……。そのご令嬢は本国に戻されて親の勧めるまま結婚……」
「その死産のはずの子どもがリュミエールというわけか」

「ええ、たぶん。わたくしが拾われて間もなく、仏蘭西人のご令嬢が、孤児院の前で佇んでいるのを園長先生が見たそうです。もしやと思い問いただしたところ、お名前は最後まで明かされなかったそうですが、捨て子をした事情を涙ながらに告白なさったそうです。園長先生はわたくしが貴族の子だとはっきりしているし身元もわかっているようなものだからお前は捨て子ではない、お預かりした子どもだと仰って、仏蘭西語や西洋のマナーや、言葉遣い、立ち居振る舞いなど、人一倍厳しく教えて下さいました」

 リュミエールは淡々と話してくれた。

 

「なるほど。まったく上海にはいろんな変わったヤツがいるよな」

「アンタだって十分ヘンだよ、ニューヨークタイムズみたいな一流新聞の記者を辞めてまで上海でゴロついてんだし、亜米利加に帰れば結構いい仕事にもつけるんじゃないの? いい大学出てるんだろ〜親が泣くよ」

「そうだな、親は泣いてるかな。父親は軍人でな、会社を辞めた一件で勘当されたんだ、俺がいなくても、もっと出来のいい弟と妹がいるしな」

 俺は頭を掻きながら答えた。

「もうしばらくはここにいるさ、上海はいい、食い物も酒も安くて旨い、可愛いのや妖しいのや上手いのや、いい女がいっぱいいるしな。それにこんな綺麗な男もいる……堪えられんぜ」
 俺は左にリュミエール、右にオリヴィエ、それぞれの肩を抱いて言った。

「げっ、アンタが女たらしだとは薄々感づいてたけど、男色の気もあったのっ」
 オリヴィエは俺の手を汚いものでも摘むようにして払いのけた。

「それほど男好きなワケじゃないさ、まぁ二、三回くらいかな相手にしたのは……」
 俺は何気なく言うと、隣に座っているリュミエールの尻を軽く撫でた。するとリュミエールは、目元をポッと赤くして俯いたかと思うと、目にも止まらぬ速さで、俺の横っ腹にケリを入れた。
 俺は軍人の父親に子どもの頃から一通りの武術を教え込まれていたし、動体視力の良さには自信があったのに、かわす間もなくまともにそれを受け、椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。

「な、なんなんだ、コイツ〜」
 倒れ込んでいる俺を覗き込みながらオリヴィエは言った。

「おいおいわかると思うけどさ、リュミエールにそういう事しない方が身のためだよ〜」
「う、うう……」
「とっさに体が反応してしまって……わたくし……すみませんでした」

 俺にケリを入れた人物とは同一と思えないような柔らかな物腰でリュミエールは、そう言うと、しゃがみ込み俺を起こそうとした。

「いや、こっちこそ悪かった、ほんの冗談のつもりだったんだが……しかし、俺はアンタに本当に惚れたぜ」

 俺は、間近にあったリュミエールの頬に口づけをした。と同時にパンと俺の右頬に激痛が走った。その拍子に俺は、後頭部を椅子にぶつけ大の字に倒れてしまった。

「ちょっと〜、打ち所悪かったんじゃないの?」
「自業自得です。男にそんな事するなんて信じられません」
「露西亜人はするよ、男同士でも」
「この人、亜米利加人でしょうっ、初対面のわたくしにキスするなんてっ」

 オリヴィエとリュミエールのやり取りを聞きながら、俺はなんだか愉快な気持ちになって笑った。

「ほらっ、笑ってるよ、やっぱりどっか打ったんだよ〜ワタシ知らないよ〜」
「お医者さんに運びましょうか、どうしましょう〜」

 二人が、少しオロオロしだすと俺は、尚更可笑しくなって、涙を流しながら笑った。上海に来てから初めて俺は心から笑ったような気がする。
 
 俺はずっと寂しかったんだな……と。
 その事に気づくと、今ここにいる綺麗な顔をした二人が、夢の産物でない事に感謝しながら大声で笑った。いつまでも……。

 

−END−

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