「宵闇亭は今、日本軍の溜まり場のようになっています。彼は確かシオザワという日本人の姓でしたね、それが災い……いや幸いと言った方がいいのか……店の合間に通訳のような仕事までさせられているようです。店をそのまま経営させてやるという条件でね。ふん、一体、何様のつもりなんだ、元からあれは彼の店じゃないか」
緑は吐き捨てるようにそう言った。
「やはりそういうことになっていましたか。彼からしばらく休業するとの短い葉書が届いたんです。いかにも無味乾燥な文で、季節の挨拶さえ無かった。察して欲しいと呟いているようで……もしやと思い、私も彼と連絡を取るのを止めていました。私の出す手紙は大学の事務局を通さないといけないのです。遠くの街でこっそり手紙をオリヴィエたちに送った事もありましたが……」
「いろいろとご不自由なことが?」
「いいえ、研究だけをしている分には何も。けれど、私に半分日本人の血が混じっていることを知っている人物が上にいます。私の後見人で、祖父の友人でもありますから、ご迷惑の掛かるようなことは……」
「李家は皇族のお血筋とも聞きます。名家ならではのお立場もあるのでしょう」
「ええ……」
ルヴァは、そういうと茶壺に茶葉を入れ、高い位置から一気に湯を注いた。泡立ちを茶杓で拭い蓋をすると、茶壺の上に湯を注ぐ。その湯気の向こうで緑がポツンと言った。
「上海は今、戦場です、貴方がいた頃の見る影もない」
「ええ。新聞で知りました……」
「先だっての陸戦隊と十九路軍の衝突は、すさまじいものでした。私の屋敷は仏蘭西租界にありましたから、それほどの被害はありませんでしたが、北駅辺りは廃墟と化しました。持っていた工場の幾つかは焼けてしまった。これを機に私は少し旅に出ようと思っています」
緑は遠い目をした。そしてようやく本題を切り出した。
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