香港の男娼館、幻夢楼にいた頃、オリヴィエの使っていた食器類は、マイセンのシノワズリなもので統一されていた。塗りの椀も使っていたが、こちらも
随所に金箔の凝らした特注品である。その他大勢の者が使っているものにしても、煌びやかな文様の入った華美なものだった。
だが、知恵の木学園の個人別になっている茶碗と湯飲み、そして少し深さのあるおかず用の皿は、白地に1番から20番までの数字が振ってあるだけという素っ気ないものだった。軍用の食器
の払い下げだったもので、数字は、隊の番号だったらしい。
1番は、この学園の園長先生、2番はその奥さん、3番からは子どもたちの番号と決まっているのだが、これは、古くからこの学園にいる者順である。長くいるものほど数字が若い。知恵の木学園を卒園して空き番が出来れば、それぞれひとつづつ番号が繰り上がることになる。それぞれ自分に与えられた番号の食器は、各自が責任を持って扱い、次に使う人に綺麗なまま渡せるように、欠けたり割ったりしないよう大切にするように……という決まりだった。
オリヴィエが、学園にやってきた時、ルヴァの番号は、すでに『3』、リュミエールは『4』。これから寝食を共にするオリヴィエには、その時の一番下の番号である『19』が、与えられた。
そして、その初めての夕飯で……。
「うわー、ビーフシチューだああっ。香港では、よく食べたけど、めちゃくちゃ久しぶりだ〜。早く頂戴〜」
と、皿を振り回して叫んだオリヴィエに、白い視線がいくつも飛んだ。
「コイツ、新入りのクセに何言ってやがる!」
「後ろに並べよ」
自分より年下の者に、そう言われてオリヴィエは、訝しげに彼を見返した。
「おい、誰か、学園のルール、教えてやれよ」
オリヴィエよりひとつ年上の少年が、ドスの効いた声で言った。
「ルールって……?」
オリヴィエは、険しい顔のまま、相手を睨み付けた。助け船を出したのはリュミエールである。
「そのお皿の番号順に、各自、お皿に入れるのですよ。あなたはまだ入ったばかりだから、可哀想だけれど、一番後なんです」
白い三角巾もまばゆいリュミエールが、お玉を片手にそう言うと、少年たちは、一斉に頷き、オリヴィエを最後尾に押しやった。一見、厳しい掟のようではあるが、若い番号を持っている年長者は、後の者の事を考えて、おかずを取りすぎないよう配慮してあげなさいという、園長先生の考えがあってのことなのであった。
「チェッ……そんなの止めて、可愛いモン順にすればいいのにさ」
オリヴィエは悔しくて、そのまま列に並ばず口を尖らす。
「男のクセに可愛いのがナンボのもんなんだよ、えいっ」
とオリヴィエのお尻に、少年たちの蹴りが入る。
「止めてよねッ。いくらすると思ってるのさ、このお尻ッ」
オリヴィエの頭の中には、悲しいかな幻夢楼の親方の『大事な売りモンだ、おデキを作るんぢゃねえ。後、滑り台もしちゃならねぇ、あれはケツが平べったくなるからな』という口グセが、こびり付いている。
「オリヴィエ、ちょっと来なさい」
すかさず園長先生の静かな注意が入る。
「はぁい……」
「オリヴィエは、男娼になるつもりなのかい?」
「ううん、なりたくない」
「だったらそういう言い方はやめなさい」
「だけど、もしもの時に為にお尻は大事にしないと」
「もしもの時って?」
「例えば、この学園が潰れそうになったりしてお金が必要な時とか、ええっと……あの子……リュミエールが、病気で手術が必要で費用がすごくかかる時とか。高く売れるから」
どう見ても学園が裕福とは思えない様子に、これからここに居させて貰うのだからと、オリヴィエなりに恩義を感じての発言だった。だが、それを聞くと園長先生はガクッと項垂れながら、オリヴィエの頭を撫でた。
「学園は潰れないように先生が頑張るし、リュミエールが病気になっても大丈夫なように貯金もしておくから、この学園にいる間は、絶対、君はお尻は売ってはいけない。出来れば、大人になってここを出ていっても売らないで欲しい。わかったね?」
「うん……わかった」
「では、ちゃんと列の後ろに行って、シチューの順番を待つように」
いままで集団生活に於いてオリヴィエは、かなり優遇されて過ごしてきた。上海に辿り着き、路上生活をしていた時は別として、幻夢楼では、王侯貴族並の扱いでチヤホヤされてきた。それが今、知恵の木学園では、一番末席の人間であり、自分の美しさが、ここでは大した価値を持たないどころか、かえってイジメの対象とさえなるという衝撃の事実に、些か、いやかなりショックを受けるオリヴィエであった。
「ねぇ、リュミエールぅ、どうして皆、ワタシにいぢわるなのさ。仏蘭西人だから? 綺麗だから?」
オリヴィエは、リュミエールの横で皿を洗いながら尋ねた。
「あなたがまだ知恵の木学園に馴染んでいないからですよ。わたくしも仏蘭西人ですけれど、誰もいじめたりはしないでしょう」
「そうかぁ。リュミエールも綺麗だけど、誰も綺麗がナンボのモンぢゃい〜なんて言わないものね」
「はぁ、まぁ……そうでしょうか……」
リュミエールは困った顔をしながら曖昧に笑った。
それから数年後……。園長先生の妻、通称ママ先生が亡くなり、その悲しみのうちに2番は永久欠番となった。就職し卒園して行った者、養子縁組がまとまった者、新しくやって来た者……知恵の木学園生の食器番号は
、あれから大きく変わっていた。
「ふっふっふ……10番か……やっと、ココまで来たよ……ルヴァとリュミエールの番号には届かないけど、アコガレの一桁まであと一息ッ」
10と書かれた皿を拭きながら、オリヴィエはニヤリ……と笑った。
「オリヴィエ、どうして食器番号にそんなに執着するのですか? 一桁番号になっても、そんなに良い事はないと思うのですけれど。確かにおかずは、早く貰えますけれど、いただきます、は一緒にするわけですし……」
リュミエールは、10番の皿を嬉しそうに眺めているオリヴィエに尋ねた。
「わかっちゃいないねぇ、早くオカズが貰えるってことはさ、カレーやシチューの時の肉の含有率に係わってくるのさ
。シューマイだとか一個、二個と数えられるものは別にして、汁モノは、曖昧だからねっ」
「は、はぁ……そうですか?」
「そうだよっ。園長先生はさ、最初に貰う人は後の人の事を考えて……って言うけどさ、そんなの考えてるの、リュミちゃんやルヴァだけ。他の連中なんかサイアクだよ。19番の時なんか、肉が一切れあればいいとこだったんだから。それにさ、時々、ミカンの缶詰の貰い物があるだろ? あれだってさ、ミカンの数は一緒でも、後になるとシロップなんかちょっぴりなんだよ」
「オリヴィエ……そんなにシロップが欲しかったら言ってくれれば……」
「だからーー、ルヴァとリュミエールは最初から控えめにしか取らないぢゃんか。問題は、5番から9番の連中だよ。ヤツらってば、食い意地はってるからねぇ、10番になったからって油断はできないよ。でもさ、アイツらまとめて、内地の工場に就職が決まってるだろ? ふっふっふ、来年はワタシも、ズドーーンと繰り上がって5番ぢゃんか〜」
それから一年後…。
集団就職で内地に行く仲間を、涙ながら(嘘泣き)に見送ったオリヴィエは、一人台所でしみじみと5番の食器一式を見つめた。
「苦節四年……この道のりは長かったよ。幻夢楼では一番オイシイトコ取りだったこのワタシが、ミカン缶のシロップなんか、イッキ飲みしていたこのワタシが、あんな後ろの順番に甘んじて幾年月……って四年だってば。ついに手に入れた5番。上にいる園長先生とルヴァとリュミエールは、よく出来た人たちだからねぇ、5番と言えば、事実上の一番も同じッ。ふっふっふっ……ああ、なんて甘美な番号なんだ5番〜」
皿に頬寄せているオリヴィエの背後で、リュミエールの声が聞こえた。
「オリヴィエ〜、園長先生のお話が始まりますよ〜」
「はーい、んふふ〜、番号決めの話だよ〜、きっと」
オリヴィエは、いそいそと居間に向かった。
「年長の者たちが去って寂しくなったね。それで今日から食器の番号を変えるよ。ちょっと園長先生からお願いがあるんだ。3番から10番くらいまでの子は、大きい子たちだよね。ところがそれ以下の子たちは、まだ
随分小さいだろう。最近、食料事情が良くなくて、この間も栄養不足で風邪をこじらせてしまった小さいお友だちが可哀想なことになってしまったよね……。だから、今日からの配膳は、食器の番号順ではなくて、小さい子や病気の子の順にしようと思うんだ。前から何度も後の人の分も考えて自分の分を取りなさい……と言って来たけど、上手くいかない時もあるしね。わかってくれるね? もちろん園長先生は一番大きいから一番最後だよ」
もちろんルヴァとリュミエールに異存はなく、それ以外の大きい子たちも納得して頷いた。たった一人、オリヴィエを除いては。
「さぁ、心機一転。使う食器の番号をクジ引きで決めよう。こよりの先に番号が書いてあるからね。ん? オリヴィエ、クジを引かないのかい?」
突如として振ってきた不幸にオリヴィエは、唖然として何も答えられない。
「まあ、残り物には福があると言うからね、いい番号が残るかも知れない」
園長先生は、オリヴィエの心中を知らず屈託なく笑っている。
「ルヴァ、何番でしたか? わたくしは11番。ゾロ目ですね」
「あ〜、なんと8番ですよー、末広がりで目出度い番号ですねー」
(漢字で書いてあるわけではないので、末広がりは関係ないのだが)
喜び合う二人を横目で見ながら、オリヴィエはいやいや、クジを引いた。
「オリヴィエ、何番ですか?」
ルヴァとリュミエールを、据わった目で睨みつけながら、オリヴィエはクジをヒラヒラさせた。
「5番……ですか」
オリヴィエの気持ちを知っているリュミエールは、気の毒そうに言った。
「クジなんか引かなくてもどうせ5番になるはずだったんだからさ……」
オリヴィエは、ガックリと肩を落としながら言った。
そして、……1925年、春、オリヴィエとリュミエールは、ついに知恵の気学園を出て独立した。水夢骨董堂で……。
「ねぇ、オリヴィエ。5番は2番に続く永久欠番だなんて勝手に決めて、食器一式、持ってくるなんて……」
リュミエールは、5の数字入った食器で、食事しているオリヴィエに言った。
「いいのっ、気に入ってるのっ。シャネルっぽいし……あっ」
オリヴィエは、茶碗を持ち上げて、マジマジと見つめる。
「どうしたのですか?」
オリヴィエは、今度は、皿をじっと見つめて、ニヤリと笑った。
「ふーーーむ」
「オリヴィエ……またよからぬ事を考えていますね?」
リュミエールは、眉間に皺を寄せた。
「……お客様、この食器は、かのシャネルが、香水発売に合わせて作らせたものでございます。大切な顧客だけにお配りしたレアもの。白地に黒い5の数字だけがプリントされたシンプルさは、あの端正な美しさの
シンプルなボトルのイメージとそっくり。ほらっ、ここをご覧下さいまし、裏に書かれたCの文字、これはココ・シャネルのイニシャルで……って、どうさ?」
オリヴィエは、楽しそうに笑っている。
「やっぱり……また、そんなことを考えて……。Cなんてどこにも書いてないじゃありませんか……ただの丸印でしょ? 焼き物工場から軍に納品する時の検印だったとか」
リュミエールは、あきれ顔で溜息をついた。
「丸印の縁が、一カ所、ちょっと薄くなってるからCに見えるよ。そうと決まったら、さっそく売り込みに……。ええっと、確かシャネルフリークのマダムの家は……」
顧客リストを探るオリヴィエの背後で、リュミエールが醒めた声で言った。
「ねぇ、オリヴィエ。どうしてシャネルが、茶碗と湯飲みなんか作るんです? バレバレでしょう?」
「あ゛…………じゃ、お皿だけでも……どうかな……ダメ?」
「オリヴィエ、今夜のカレー、お茶碗で食べますか? テンコ盛りにして」
かくしてオリヴィエは、5の番号の入った食器を、延々と使い続けたのだった。もちろん巴里にも持って行きましたとさ。
おしまい。
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