1927年 秋……。巴里行きが決まったリュミエール。荷造りもすっかり終わり、後は夕方の出発を待つのみである。思い残すことを少しでも軽くして行きたい……と、リュミエールは、早朝からオスカーを、水夢骨董堂に呼び出した。
「わたくしは……」
そう言った後、リュミエールは俯いた。その長い睫毛が震えているように見える。そして、再び顔を上げる。恥じらいの中に、凛とした意志を込めて、リュミエールはオスカーを見つめる。
「貴方の背中が忘れられません。この胸に焼き付いて離れない。逞しくて綺麗な背中でした……巴里に行く前に、もう一度貴方の背中が見たい……」
オスカーは、リュミエールの信じられない言葉に動揺しつつ、いつ彼に背中を見せたかと考えた。思い当たるのは……。
“そうだ……いつか一緒に虹口の銭湯に行った時だ……ああ、なんだ、思わせぶりな言い方をしやがって! 巴里行きの船に乗る前に朝風呂に入っておこうってワケか。危うくまた引っかかるとこだったぜ……ふう”
オスカーは、騙されないぜ、と言わんばかりの素っ気なさで、「ああ、いいぜ、OKだ」と軽く交わしたつもりでそう言った。だが……。
「ありがとう オスカー! では……」
リュミエールの顔が、パッ明るくなる。そして、嬉しそうにオスカーに躙り寄った。
するり……と脱がされる上着……。
「ちょ、ちょっと待て、銭湯に行くんじゃないのか?」
「銭湯? なんの事です? じっとして下さい、それとも自分で?」
リュミエールは、アッという間に、オスカーのネクタイを解きにかかった。
オスカーは、我を失いつつある。
“まさか、本当にもしかして、アレで、ソレで……”
リュミエールは、オスカーのカッターシャツのボタンを器用に外していく。
「オスカー……わたくしはもうすぐ巴里に行ってしまいます、出来れば、オリヴィエと一緒で御願いしたいのです、きっといい思い出になると思うのです」
リュミエールの手は、さらにカフスに迫る。
「お、オリヴィエもって……お前、それじゃあ……」
「ええ……御願いできますよね……」
オスカーは答えに詰まり、言葉が出ない。その時、扉の軋む嫌な音がした。
「はぁい、オスカー、覚悟はいい?」
リュミエールの言いなりに服を脱がされながら、オスカーは振り返った。扉の前にオリヴィエがいた。龍の絡み合う深紅の絹のガウン姿も艶やかな彼の目は、据わっている。仄かに頬に赤みがさしている。
少し酔っているようだ。
「こんなコト……酔ってなきゃできやしないよね……リュミエールがどうしてもっていうからワタシもいいって言ったけど……」
オリヴィエは、気だるそうに髪を掻き上げる。
“ああ……超絶3P? 俺は嬉しいかもしれない……ハッ、だが待てよ……この場合、組み合わせはどうなるのだろうか? 俺が【攻】として、オリヴィエとリュミエールが【受】か……体は
もつだろうか……なんとしても、もたせなくてはっ
。い、いや待てッ、オリヴィエと俺が【攻】で、リュミエールが【受】ってパターンもアリだな。普段の生活では、強気なリュミエールが俺たち二人に攻められるっていうパターンは結構そそるものがあるしな。……しかしアッチ方面では耳年寄りなオリヴィエの事だ、俺がオリヴィエから【受】で、リュミエールには【攻】のサンドイッチなパターンもあるかも知れん……、俺は受はあまり気乗りしないが、この場合いたしかたない……”
オスカーの中では、絵柄に出来ないほどの妄想が渦巻く。
「何ブツブツ、言ってんの、オスカー、ふふ、さすがリュミエールが惚れただけあっていい体してるね……」
オリヴィエは酒の回った潤んだ瞳で、オスカーの裸の胸を触った。
「オリヴィエ、早くオスカーの靴下を取ってください。ウズウズしてきました」
リュミエールは、もどかしそうにオスカーのベルトを外している。
“ああ……、リュミエール、なんて大胆な! ハッ!”
その時、オスカーの脳裏に恐ろしい考えが思い浮かんだ。
“まさか、まさか……オリヴィエとリュミエール【攻】、俺の【一人受】ってことじゃぁぁ……嫌だ、そっ、それだけは嫌すぎる、この俺が、この二人から、あーんな事やこーんな事をされる……そっ、それだけは〜〜”
「やっぱり、ちょ、ちょっと待ってくれ!」
オスカーは、我に返ってそう言ったが、万事休す……。彼の身を包んでいた最後の一枚はリュミエールの手の中にあった……。
「オリヴィエも……」
リュミエールは、オリヴィエに指図した。
「わかってるって……」
オリヴィエの肩から深紅のガウンが滑り落ちた。白い肌が露わになる。細い……が、痩せすぎということはない。中性的な美体は、宗教画に出て来る天使のようだ。
オリヴィエは、腹を括ったのか、一纏わぬ姿でオスカーの側に行き、その体を窓辺にあるソファの方へと押しやった。
「せめて、心の準備をさせてくれ……た、煙草が吸いたい……」
だが、オリヴィエは、もう我慢出来ない様子だった。
「ダメ。早くしよう、リュミエール。いつまでもこんな格好で、たまんないよ」
オリヴィエは、リュミエールを急かした。
「ええ……わかっています。けれどもこんな機会滅多にありませんからね……」
普段は優しげなリュミエールの目が真剣になった。
「オスカー、そんな困った顔をしないで下さい。いつものあなたらしく堂々と、顔をあげて……そう、あなたの男らしさを誇示するようにもっと背筋を伸ばして……腰も……」
リュミエールはオスカーの背筋に手を回した。そして前を隠していた彼の手を掴むと、腰を突き出させようとした。
“い、いかん局地的に巨大化の兆しっ”
オスカーは、全身がカッと熱くなるのを感じた。
「ああ、いいです、あんまり元気すぎるのもなんですが、その程度の方が男性美が強調されていいですね、オスカー。オリヴィエ、あなたももう少し、そのデロリンとしたものなんとかしてください」
リュミエールは、冷たくオリヴィエに言い放つ。
“なにかヘンだぞ……”とオスカーはようやく思い始めた。
「そんなコト言ったって、そう簡単にはさ。このしちゅえーしょんじゃあねぇ。なんかエロい本でもあれば……あ、昨日、仕入れた春画あったよねー、ちょっち待って。確か、この辺りに置いたはず……あった、コレコレッ。おおう〜ジャパニーズ・エロイラストォォ〜、ほらっ、オスカーも見てみなよ、結構イケるよー」
オリヴィエは嬉しそうにベラペラと春画をちらつかせた。のっぺりした芸者ガールの着物の裾に手を突っ込む若旦那の図……、そして次のページ……。
“ふんっ、この程度、ぬるいな……二枚目は、おうっ! こっこれは燃えるぜ! ファイヤーッ”
オスカーは、春画に心を奪われ、オリヴィエは、んふふ〜と目を細める。
「ふたりとも……っ。ヘラヘラしてないで、しっかり立って下さい。あっ、そういう意味の立つではありませんっ。まっすぐに立ってという意味ですよっ。じっとして下さいッ」
リュミエールは、殺気だった様子で、スケッチブックを開けた……。そして、鉛筆をまるで必殺仕事人の使う簪のようにクルクルと回すと、一心にオスカーとオリヴィエをスケッチし出した。
“ふっ……やっぱりな……朝日の中、何が嬉しくてオリヴィエと二人裸で、仁王立ちしてるんだか……”
オスカーはホッとしつつも、項垂れた、首も、もう一部分も。
「前は良し……と。後姿を描きたいので、二人とも、背中をこちらに向けて下さいね。
そうですね、少し見上げたアングルで描きたいですね……。二人ともそのソファの上に上がって。……そう、オスカーは腰に手を置いたまま、顔は、少しだけオリヴィエの方に向けて。オリヴィエ、貴方はオスカーの肩に肘を置いて。もう一方は腰に。ああ、大好了! とってもいいですね」
二人は、仕方なく言われるままに、ソファに上がり、リュミエールに背を向けたが、開け放たれた窓に向かってこの姿で立つのに、ものすごく抵抗がある。
「おい、リュミエール、カーテン閉めていいだろう?」
「ダメです。朝の光がないと」
リュミエールは、情け容赦なくキッパリとそう言い放つと、動くなと言わんばかりの眼で睨む。
「でも、リュミエール、裏の家から丸見えなんだよ」
オリヴィエも哀れな声で懇願する。
「裏庭には鶏とアヒルしかいませんから」
水夢骨董堂の裏の家は、庭で鶏とアヒルを放し飼いにしているのである。
「いや、だけど、ウチの窓が開いてるもんだから、さっきからジワジワと鶏たちがこっちに集まって来てるんだよ」
「気のせいでしょう」
「本当だ。窓のすぐ下に五羽いる。アヒルたちも行進してくるぜ。うわ、視線があっちまったぜ。こっちを見て喉を鳴らしてる。餌を貰えると思ってるんだ」
「リュミエール、ワタシ、躙り寄って来る鳥にトラウマがあるんだ。昔、クジャクに言い寄られたことがあって(『花影追憶/参照』)……お、ねがい……もう、ダメ……」
オリヴィエは、その場にヘナヘナと座り込んだ。
「だ、大丈夫か、オリヴィエ」
「仕方ありませんね……」
リュミエールは、窓際まで行くと、そこから裏庭を覗き込んだ。本当に鶏が集まっている。
「シッシッ」
リュミエールは手を振るが、鶏たちは慣れているのか、去ろうともせず、よけいに集まってくる。
「向こうへお行きなさい。でないと、シメますよ?」
サクッとコワイ事を言うとリュミエールは再び手を振った。だが、コッコッコッココココ……と喉を鳴らす鶏たちは知らんぷりである。
その上、アヒルたち一直線に並び、ガアガアと鳴きながら進んでくる。リュミエールは、窓から身を乗り出したかと思うと、
サッと俯き、そのうちの一羽の鶏の首を掴みあげた。
コケェーーーーッ、と暴れながら悶える鳴き声がする。
「ひぇーーーっ」とオリヴィエは頭を抱える。オスカーは、呆然としたまま立ち尽くしている。
「ハウス!」
リュミエールは、そう言うと掴んでいた鶏を鳥小屋目掛けて放り投げた。
コココココケーーーッ! 断末魔にも似たけたたましい鳴き声とともに、鶏
とアヒルたちが一斉に散って行った。
「鶏って飛ぶんだな……」
オスカーが呟く。
「あれって飛ぶって言うのかい? ぶん投げた……って言った方が……」
オリヴィエのコメカミがヒクヒクしている。
「さあ、静かになりましたね、よかった。二人とも続きを」
「は、はい」
オリヴィエとオスカーは口答えせず、先ほどと同じポーズを取った。
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朝の静けさの中で、リュミエールが走らせる鉛筆の音だけがしている。
「なあ……オリヴィエ」
とオスカーは小声で言った。
「あ?」
「思うんだが、鍛えあげた体だったら、リュミエールの体の方が、俺よりも数段上なんじゃないかな?」
「ん、まあね。リュミエールの胸板ってさ、水泳と武道で鍛えてあって、それはそれは立派なもんなんだよ」
「だったら鏡でも見て、自分で描きゃいいじゃないか」
オスカーはブツブツと不満を漏らす。
「でも背中は自分では描けないからねえ。それに……」
「ん?」
「小さい頃から柔道の受け身のしすぎでさ……」
オリヴィエの声がいっそう小さくなる。
「あ、そうか。尻が四角いらしいな……ククク。顔と体のギャップありすぎ」
「ワタシなんかこう、プリンッとしてツンと上向いてるキュートなお尻だけど、リュミはさ、結構、のっぺりと……そうそう、このスケッチブックみたいにベターンと四角い……え?」
背後にスケッチブックを片手に、ニッコリと笑うリュミエールがいた。ビビるオリヴィエとオスカーを素通りして、リュミエールは窓辺へと向かう。
「さあさ、スケッチは終わりました、鶏さんとアヒルさん、さっきはごめんなさいねー。餌のお時間ですよー」
そう叫ぶと、優しげな笑顔はそのままに、くるりと振り向いた。ポキポキッと指の関節を鳴らしながら……。
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