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ふくらすずめ屋・画廊へ

 

「失礼」
と一分の隙も無い姿の西洋の紳士が、緑を追い越してさらに、廊下の奧に進んで行った。脇に並んだ部屋には目もくれずに。
「孔雀の部屋は、さらに奧と見た」
 緑は、その紳士の後を追う。廊下の角を二つ曲がったところで、彼は中庭に出た。渡り廊下の向こうに、ぼんやりした灯りがひとつ。舟の形をした燭台が廊下の梁から吊り下げられていた。その下に置かれた黒檀の香炉台。先刻見た、金や銀の香炉よりも、妖しげに、艶やかに光る紅い香炉がひとつ。

「まだ奧に部屋があるのか……」
 緑が渡り廊下をさらに進もうとすると、いず方ともなく現れた老人が、頭を下げたまま、緑に告げた。

「旦那様、ここから先は符が無いと入れませぬ」
 入る事を許された証の紙片を見せよと、老人は手を差し出す。
「俺は勝手に屋敷の中を見ていいと言われたんだが。上海から来た昌の息子だよ」
「…………」
 老人は困った様子で考えていた。
「この奧にオリヴィエがいるだろう、会って来いと言われたんだよ、叔父上に」
 緑は、口から出任せを言った。もしや……と鎌を掛けたのだ。
「ああ、そういう事でしたか。では、突き当たり……の手前に【参】と書かれた扉の部屋が在りますのでそこへ。【壱】や【弐】とはお間違えになりませぬよう」
 呪文のような言葉を残して老人は、紅香炉の奥に続く薄暗い廊下を指さすと、その場に座り込んで頭を下げた。

(【参】と書かれた部屋? 【壱】や【弐】と間違うな?)

 緑は不審に思いつつ、廊下を渡る。香の匂いが夜風に流れて一旦消えた……かと思うと、廊下を渡りきったところで、新しい香りが漂い始めた。

「夜来香(イェライシャン)か……」
 それは香炉からではなく、渡り廊下の橋桁のあたり一面に咲ている夜来香の花の香りだった。

 

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