水夢骨董堂細腕繁盛記外伝 『花影追憶』 リュミエール回想録/冬の君子花 |
そして、涸れた蓮の葉を見ながら、園長先生が何の理由もなしに、わたくしの意見に反対なさる事はないのでは……と考え始めました。 わたくしの生まれについては、八歳になったおりに、園長先生がわたくしが仏蘭西貴族の捨て子である事や、事情があってわたくしを捨てた母親がいかに優しく高貴な人であったかを切々と説いて下さいました。 「いつか仏蘭西にお前は行くかも知れない。その気になれば大使館に記録が残っているかも知れないから、自分の本当の母親や親戚の居所を知る事も出来るかも知れない、そして母親と対面するような事があるかも知れない、その時の為に私はお前を立派に育てたい」と先生は仰いました。 ですから傍目には厳しいと思えるような仏蘭西語や行儀作法、武術の稽古もわたくしは辛いと思った事はありませんでしたし、先生も無理強いなさるような事はなかったのです。振り向けばいつも実子のルヴァと変わらぬ態度でわたくしを見ていて下さる先生がいらっしゃいました。 一時でも先生を恨むなどと、何という愚かな考えを心に抱いてしまったのだろう……と後悔しました。 その刹那、涸れ葉だけの蓮池にあの時と同じような赤色赤光、白色白光に彩られた見事な蓮の花を垣間見た思いが致しました。 わたくしはもう画家のアトリエには行かず、城内を抜けて裏外灘を虹口地区の知恵の木学園目指して走ったのでした。学園に戻る道すがら、どんなに先生や皆が心配しているだろうと思うと心が痛みました。わたくしになついている幼子たちは、泣き通しているかも知れないと思うと、走っている事すらもどかしくてなりませんでした。 やっとの思いで学園に辿り着いた時は、夕日が落ちかける間際でした。玄関に入ると中から子どもたちの笑い声が聞こえてまいりました。園長先生の楽しげなお声もしていました。 「ただいま」とわたくしが言うと、子どもたちが「あ、リュミエール、こっちにきてカルタ取りをしようよ」「でもリュミエールが入ると全部、札を取られるよ」「そんなら読んで貰えばいいじゃないか」などと口々に言いました。 園長先生はニコニコしながら「だめだよ、リュミエールは今日は夕飯の当番だから遊べないぞ。リュミエール、さっき、豆腐屋から出来立ての納豆が届いたぞ、まだ暖かいぞ〜」と嬉しそうに仰いました。 わたくしは頷くと夕飯の用意の為に台所に入りました。よく考えてみればわたくしが園を飛び出してから三、四時間ほどしか過ぎていませんでしたし、手荷物といえば数枚の着替えと絵の道具くらいで、普段学校に行く時とほとんど同じ姿では、誰もわたくしが家出をしたなどと思いも寄らなかったに違いありません。良かったと思うと同時に、わたくしの気持ちを誰にも判って貰えなかったようで、少し悲しい気持ちが致しました。 台所に入ると、同じように炊事当番に当たっているオリヴィエが出来立ての納豆の匂いに文句を言いながら、料理の下ごしらえをしていました。オリヴィエはわたくしが遅れてやってきた事を咎めると、「あのね、今度から家出する時は、書き置きとかして行った方がいいと思うよ〜、誰も心配してくれないから損だもんね」と言うとニヤッと笑ったのでした。 「わたくし、家出なんかしておりません、ちょっとスケッチに行ってただけです……」と意地を張って言いました。 「え? そう? てっきり家出したと思ったよ。なんだか悲しそうだったもん、ほら子どもたちの宿題を見てあげてる時に。それで、先生から進路の事、反対されて辛いんだと思ったんだけど、勘違いだったのか〜」 オリヴィエは心配して損したと言わんばかりの顔をしていました。わたくしは子どもたちには関係のない事だからと、なるだけ明るく笑いながら宿題を見てやっていたつもりでした。それなのにオリヴィエだけは、わたくしの気持ちを感じ取っていたくれたのだと思うと、突然、涙が溢れてしまいました。 男が人前で泣く事は女々しく恥ずかしい事だと思っておりましたので、なんとか誤魔化そうとしましたが、後から後から涙がはらはらと流れでて止まりませんでした。オリヴィエはそんなわたくしを見ると「いっしょに泣いたげよう〜」と言い、刻みかけの玉葱を一欠片、口に放り込みました。 そして何時までも「ぐ〜、するんぢゃなかった〜」と苦しんで泣いていました。 わたくしはその日からオリヴィエの前でだけは何の躊躇いもなく泣く事が出来るようになったのでした。 終 |